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おじょーのいない週末

ちまたは今日から三連休。おじょーと、夕木くんもお休みとなる。
せっかくの連休だが、私は三日間とも一人でいる。
おじょーは今日から友達と旅行へ出かけているからだ。
久しぶりのおじょーのいない週末。
おじょーは約700km離れた先にいる。
少しどころか、かなり寂しい。
ただでさえ感傷的になってしまうのに、今日は雨でセンチメンタルとメランコリックが加速する。
たまにはこんな日もいいか、と思い、どっぷり悲しみに浸ってみることにした。
アロマキャンドルの火を灯し、ついでにKuumbaのお香も焚く。おじょーの部屋と同じ匂いがして、寂しさが苦しくなる。さらにエレクトロニカを聴く。選曲はmúmのyesterday was dramatic, today is okにした。私には今日はまるで大丈夫じゃないので、矛盾を感じたが、そこも含めてokとして流す。
部屋はかなり静かだ。曲の切れ間に雨音が聞こえる。エレクトロニカの電子サウンドとキャンドル炎のゆらぎが心を陶酔する。
LINEの着信音がするが、目当てのメッセージではない。私の言葉は、既読のつかぬまま風化していく。
放置された言葉たちはどんな色をしているのだろう。届かぬ思いはどんな形をしているのだろう。
時間が過ぎ去ってゆく。すべてが鈍色に見える。見慣れた部屋の景色も、空も、感情さえも色がなくなる。モノクロームだったらよかったのだけれど、幻想的とは程遠い、影のないコンクリートで埋め尽くされた冷たい場所に一人でいるようだ。
ただ曇った天井を見つめ時を過ごす。
どのくらいそうしていたのだろう。
もう何年もそのままだったような、果てしない時間を過ごしたような気がする。もしくは、時間など経っておらず、ただ時が止まっていただけなのかもしれない。
そんなことを考えたら辛さで目眩がして、一切合切やめた。
キャンドルの火を消し、お香は手でへし折り、音楽は電源ごと引っこ抜いて消した。
部屋は雨音で充満した。
おじょーの優しさに触れたくなったが、思ったと同時にそれはできない虚無感に襲われた。
今日が雨でよかった。
雨音が救いになる気がしたからだ。

私には待つことしかできない。
その事実が体と心を蝕む。
悲しみに浸った体と心はひどく乾いていた。
触ったらボロボロと崩れていく砂の塊のようだ。そして、とても冷えている。肌の細胞ひとつひとつがツンとして立っている。
人は悲しいとき、乾いて冷たく朽ちてゆくのだなと感じた。

こんなにも悲しみに暮れるのは久しい。
悲しみを存分に感じてみようと自分で望んだのもあるが、人の感情に底はないのかもしれない。
耐えきれず途中で断念したが、やろうと思えばまだまだ闇に落ちていける感覚があった。
人はどこまでも悲しむことができるのだろう。

夕木くんが悲しんでいると知れば、おじょーも悲しむだろう。それは本意ではない。
おじょーがいない寂しさや悲しさはあるが、帰ってくれば会えるだろう。いつものように思ってもくれるだろうし、抱き締めてもくれる、キスもしてくれるだろう。
私はそう信じているし、信じることができる。

私はただ、自分の感情を知りたかっただけだ。
おじょーと出会って、自分のいろいろな感情にも出会った。人を愛する感情や、おじょーの顔をみることができる特別感、ただ隣にいるだけの安心感、何気ない時間を過ごす幸福感、それにポジティブな感情だけでなく、不安感や、悲しみ、寂しさも傷つくことも当然あることに気づいた。
そのひとつひとつがとても新鮮で、こんな感情になるのだな、と驚くばかりだ。
けっして悲観しているわけではない、おじょーとなら大丈夫なんだろうな、そう改めて感じとりかったかっただけだ。
私が諦めなければ、おじょーはどんな形であれ、そばにいてくれるだろう。おじょーは夕木くんを見捨てない。確証はないが、なんでか強くそう思った。
悲しみを実感した故に、私はそう思ったのだ。
間違いでも、勘違いでも構わない。私がそう感じたのならそれでいい。私はそうおじょーを信じた自分を信じる。ただそれだけだ。

おじょー、たくさん楽しんでとびきりの笑顔で帰ってきてね。夕木くんは精一杯の気持ちで抱き締めてお迎えするよ。おじょーに悲しいことが起こらないよう明日も明後日も祈りを捧げます。
愛を!










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