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ベーシックインカム後の世界は既に存在する。Netflixドラマ「あいの里」批評

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現代社会において、恋愛リアリティショーは単なる娯楽を超え、私たちの社会の未来像を垣間見せる存在となりつつある。特に、「婚活に失敗した中高年の男女が共同生活を送りながら結婚を目指す」という設定のショーは、ベーシックインカム後の世界を体現していると言える。私が視聴した「あいの里」というNetflixの恋愛リアリティショーはこのような特徴を持っており、かなり忠実にベーシックインカム後の世界を体現していると考える。第一に、こうした恋愛リアリティショーの設定は、ベーシックインカム後の生活環境に近い特徴を備えている。参加者たちは、古民家やシェアハウスのような共同空間で生活し、番組から提供される限られた資金を元に生活を営む。この形式は、最低限の生活保障が与えられたベーシックインカム後の社会を彷彿とさせる。経済的な競争が緩和された中で、人々は生活や生存のための活動ではなく、個人の目標や人間関係の構築に注力するようになるだろう。このように、経済的負担が取り除かれた状態での共同生活は、ベーシックインカム社会のミニチュア版といえる。


第二に、恋愛リアリティショーの焦点は、共同作業や協力を通じた人間関係の構築にある。参加者は、家事や農作業などの共同作業を通じて交流を深め、恋愛関係に発展する可能性を模索する。この過程は、個人が孤立するのではなく、互いに協力し合いながら目標を達成するベーシックインカム社会の可能性を映し出している。経済的な競争から解放された社会では、効率性よりも共同体としての絆や信頼が重視される。この点で、恋愛リアリティショーは、経済活動の代わりに人間関係が中心となる未来社会の実験場ともいえる。第三に、参加者が「婚活に失敗した中高年」であるという設定も、ベーシックインカム後の社会の一側面を象徴している。結婚という「人生最後のプロジェクト」に挑む彼らは、これまでの人生で社会的な成功を得られなかった者や、通常の枠組みから外れた存在と見なされる。ベーシックインカム後の社会では、こうした「失敗者」や「異端者」にも新たな挑戦の場が与えられるだろう。年齢や社会的成功が重視されなくなれば、人々は生き直しや挑戦を許される環境で生きることが可能となる。最後に、こうしたショーには、しばしば「独身の中年であり、人格に問題がある」とされる参加者が登場する。この特徴は、ベーシックインカム後の社会において「個性の多様性」や「問題を抱えた人々の居場所」がどのように確保されるかを問うものとなっている。経済的プレッシャーが和らぐことで、これまで疎外されていた人々が社会の一部として受け入れられる可能性が高まる。恋愛リアリティショーにおける「問題を抱えた独身者」という設定は、彼らが新たな環境下でどのように生きるかを模索する象徴的な姿だ。


結論として、恋愛リアリティショーは、ベーシックインカム後の社会における人間関係や生活スタイルを模倣する場であると言える。経済的競争から解放され、共同生活を通じて絆を築くという設定は、未来社会の可能性を探る試金石となるだろう。その一方で、参加者の特性や社会的背景が持つ示唆的な要素も見逃せない。恋愛リアリティショーを通じて、私たちはベーシックインカム後の世界の一端を垣間見ているのかもしれない。恋愛リアリティショーは一見すると、男女の恋愛模様を中心に据えたヒューマンドラマを描いているように見える。しかし、その裏には、独身中年男女が「夢」という名目で最後の挑戦に臨む姿を、視聴者がどこか滑稽に感じる構図がある。この現象は、より露悪的に表現された作品、すなわち「イカゲーム」と表裏一体の関係にあると言える。「イカゲーム」では借金を抱えた人々が死を賭けたゲームに挑み、賞金という一縷の望みにしがみつく。その極端な状況設定は、恋愛リアリティショーが隠そうとする醜悪さをあからさまにしたバリエーションに他ならない。


恋愛リアリティショーに登場するのは、婚期を逃し、中年を迎えた男女たちである。彼らは古民家や共同生活の場で「恋愛」を夢見ながら、まるで学生時代の文化祭を延長したかのような活動に興じる。しかし、そこには「アダルトチルドレン」とも呼ぶべき幼稚さが透けて見える。社会的責任を果たしきれなかった人々が、子供じみた夢を追う姿は滑稽であり、その見苦しさが視聴者に一種の優越感や娯楽としての快楽をもたらしている。現代において、このような人間模様が受け入れられているのは、社会が成熟するどころか退行している兆候かもしれない。一方、「イカゲーム」の登場人物たちは、恋愛リアリティショーの参加者と似た境遇にあるが、その物語はより露骨で悲惨である。彼らもまた社会の敗者であり、救いを求めるものの、賞金という目標を前にして人生を失っていく。ゲームを勝ち抜くためには他者を蹴落とす必要があり、敗者には即死が待つ。ここに描かれるのは、現代社会が個人をどれほど極限状態に追い込むかという問題だ。「イカゲーム」が恋愛リアリティショーと異なるのは、その露悪性を隠さず、むしろ強調している点である。恋愛リアリティショーが視聴者の「純粋な愛」を信じたいという偽善的な欲望を満たすのに対し、「イカゲーム」は社会の暗部を直視せざるを得ない物語を提示する。しかし、両者は根本的には同じ現象を描いている。恋愛リアリティショーは、独身中年男女が夢という仮面をかぶって滑稽な挑戦を繰り広げる様子を、視聴者が消費する構図だ。その悲惨さは「イカゲーム」の登場人物たちが命を賭けて賞金を求める姿と本質的に変わらない。いずれも、現代社会における「最後の希望」にしがみつく人間の姿を映し出している。違いがあるとすれば、それは舞台装置の違いだけだ。


恋愛リアリティショーを視聴することで得られる娯楽は、参加者たちの夢や努力の裏にある悲惨さ、そして彼らの滑稽さを楽しむことで成り立っている。一方で「イカゲーム」は、その悲惨さをエンターテイメントとして隠さず提示することで、観客に刺激を与える。このように考えると、恋愛リアリティショーの人気が高まる一方で「イカゲーム」のような作品が支持される背景には、現代社会そのものの残酷さが反映されていると言えるだろう。このような娯楽作品が現代社会において受け入れられているのは、私たちが他者の悲劇にある種の快楽を見出し、そこに自分の「優位性」を確認する傾向があるからだ。恋愛リアリティショーも「イカゲーム」も、その意味で私たちの社会の歪みを鏡のように映し出しているのではないだろうか。






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