なんとなく 私のこと
以前は、思っていることをうまく言葉にできないのは、私の性格のせいだと信じていた。しかし、それだけが理由ではないのかもしれない。生まれつき何かがわずかに異なっていて、それがうまくいかない理由かもしれない。他にもいろいろな理由が考えられる。同じように、言葉で自分の思いをうまく伝えられないと感じている人は、多いのだろう。
そんなことを意識するようになったのは、ある人と出会ったからだ。それがきっかけで、イギリスに長期滞在するようになった。その人は、知り合ってしばらくすると統合失調症と診断され、入院してしまった。彼が入院した病院のパンフレットを読んだとき、その内容がまるで自分のことを言い当てているように感じた。さらに、美術学校で働いていた彼の母親が、ディスレクシアの生徒が多いこと、そして彼らの脳が通常とは異なる働き方をしていて、それがクリエイティブな活動に役立ち、強みになることを教えてくれた。ただし、社会的に受け入れられない部分もあり、それが自己嫌悪につながることもあると、少し嘆いていた。息子には悲観してほしくないけれど、どうしようもない部分があると、正直に話してくれた。彼が最初に病院に行ったとき、このまま入院させるかどうか、私の意見も考慮してくれた。私は、今は家族と一旦離れて、彼にはスペースが必要だと伝えた。が、彼を思いやる本心は半分で、もう半分は私自身のためだった。深夜に3時間も彼の妄想を聞かされることは苦痛だったからだ。
私は、考えることがとても下手だと思っている。でも、感覚的な部分は意外としっかり働いているようで、それに気づいてからは、自分の感じていることを疑うのをやめた。それまでは、自分はどこかおかしいのではないかと感じていた。なぜなら、あまりにも他人との感じ方がずれていたからだ。何かを感じていて、表現できないことは苦しみでしかなかった。それが正しいかどうかを常に疑っていたからだ。でも今は、正しいか間違っているかではなく、私だけが感じるものであり、それ自体が私の答えなのだと理解するようになった。
私には明確な価値観というものがないのだと思う。ある意味、なんでも受け入れてしまうのだ。気分次第なのかもしれない。そのせいか、不真面目だと言われたり、やる気がないと怒られたりした。そういう時の私は傷つくことはなく、むしろ相手が気の毒に見えた。
ずっと不思議に思っていたことがある。どうして私が嫉妬されるんだろう? 何が羨ましいのだろう? 時折、敵視されるような態度を取られることもあった。今になって思うと、イギリスのお母さんが言っていたことと関係があるのかもしれない。脳の働きが少し違うから、私が無邪気で苦労知らずに見えるのかもしれない。私のそういうところが、意図せず相手の神経を逆撫でることはあるだろうと思う。
私は、遠回しな言い方ができないので、率直に話すことが自己表現の一部だと思っている。相手の話を聞くときも、何度も聞き返してしまう。「もっとはっきり言ってくれないと、何を言っているのか理解できません」と。また、「これ言ったら傷つけちゃうかな?」と言われて、興味を持って話を聞くと、傷つくことでもなんでもなかったりする。なんだかズレている。こんなことを言っていると、「格好つけてるんだろ?」と言われることもあった。自称賢い人からはそう見えるんだ。それなら理解してもらおうとは思わないし、仲良くなれないと思っていた。
先日、私の好みを聞いてくれる人がいて、さらに、「好みを教えてくれて嬉しいです」と言ってくれた。イギリスでは好みが尊重されたし、干渉はされなかった。誰でも受け入れられる感じがした。そうした快適さは、帰国後、それを知ってしまったことで逆に苦しくなった部分もあった。それでも、「知らない方が良かった」とは思わなかった。良い体験を通じて学んだことは、「ただ自分でいること」だった。下手に相手を気配っても、単に誤解されるだけなのだ。経験して掴んだものはいつか必ず生かされると信じていた。そして、今、私の中でそれは活きていると、感じる。遠回りしたけれど、今は素の自分に戻り、好きなことを好きなようにできるようになっている。
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