Lucinda

好きなもの: コーヒー、音楽、散歩中に見つけた面白いもの | I'm turning a new page in my life | Every stroke on my keyboard is bliss | I'm a Lightmomentist

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日常を通じて自由に感じる私だけのスタイル

子供の頃から写真が好きで、気づけばそれが私の一番の表現方法になっていました。でも、言葉も好きで。だから文章を書き始めました。時々、絵を描いたり、詩のようなものを書いたり、物語を作ったりもします。 でもやっぱり、写真が一番しっくりくる。だけど、言葉でも表現したい。ちょっとした思いつきとか、気持ちとか。 noteを始めて、自分と向き合う時間が思った以上に大切だと気づきました。ここでは、私の知らないことは一つも書いていません。日々感じたことや思ったことを、そのまま表現しています

    • 強さって、なんだろう

      会話の中で、「もっと素直に自分の気持ちを伝えればよかった」と後悔した経験はありませんか? 正直に心を開くことは、時に難しいと感じます。それはなぜでしょうか。多くの人が「周りの目を気にしすぎて、自分らしさを失っている」と言いますが、実際には自分を深く理解していないことが原因かもしれません。 心を開く鍵は、自分自身を知ることです。自分の感情や思いを理解せずに、自分らしさを発揮するのは、まるで鍵を持たずに扉を開けようとするようなもの。難しいのは当然です。私自身も、ある方から自己

      • 良き友人のように

        好奇心が招いた予期せぬ冒険 ふとした好奇心から、手を出してはいけないことに関わってしまった経験、ありませんか? 私は、それを経験しました。一歩踏み込んだことで、問題が次々と噴き出し、まるでパンドラの箱を開けてしまったように感じました。 最初に感じた気持ち 問題が飛び出してしまった以上、受け止めることしかできません。最初、問題に対して怒りが湧いてきました。しかし、それならそれでいいと、動揺する自分をを受け入れることにしました。感情に溺れず、未熟な自分を認め、受け入れること

        • 希望依存

          私が長い間感じていたこと、それは希望の限界です。 ポジティブエネルギーに魅了される人はたくさんいると思います。 でも私にとって、それは現実逃避であるように思えました。 満たされていない自分を埋めるための手段のように感じられ、不自然でした。 それでも、実際には、私が希望に頼りすぎていたからこそ限界を迎えたんだと思います。 限界に達すると希望を持ち続けることがむしろ負担となり、希望というアイディア自体に対して距離をおきたいという思いが強くなりました。 私にとって、希望

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        日常を通じて自由に感じる私だけのスタイル

          終わらない始まり

          未完成であること。 それは一見すると、何かが足りない、不完全な状態に思えるかもしれません。でも、そこには実はたくさんの可能性や深い意味が隠れています。 完成されたものは、止まっている(死んでいる)ようなものです。 もう手を加える余地がなく、変わることも進むこともありません。でも、未完成なものは違います。そこには、まだ成長できる余地や、自由に想像を広げられる空白があるんです。人の心を惹きつけるのは、完璧さよりも、未完成の持つ「問いかけ」なのかもしれません。 私たち人間も、未

          終わらない始まり

          私の知的好奇心 - 考えるという冒険

          知識人(知的な人): 情報や知識を集める傾向が強い 理論や論理に固執しがち 恐れから逃れるために知識を「使おう」とする 現実から遊離した思考に陥りやすい 知性: 現実をありのままに理解する力 自然との調和の中で働く 恐れに支配されない冷静さをもたらす 本来の人間性を支える基盤 つまり、「知的であること」と「知性を働かせること」は、異なる状態を指しているわけですね。 知的な人は恐れから逃れるために知識を求め、それによってかえって現実や自然から遠ざかってしま

          私の知的好奇心 - 考えるという冒険

          素敵だな

          ふと頭に浮かんだこの意味はなんだろう? 『素敵だな』 「素敵(すてき)」という言葉には、深く考えると興味深い意味合いが詰まっていそうです。 最近よく耳にするようになったということと、自分でもなぜか「素敵」を使って表現することが増えたという理由で、改めて素敵という言葉について考えてみることにしました。 すると、 素敵の『素』は、ありのまま、自然のままという意味がありますね。『敵』には叶うの意味が含まれていますね。『素敵だな』は、ちょっとした憧れや敬意を表している場合も

          素敵だな

          純粋な欲求と欲望の違い、そして知性 + 正しい自己分析

          純粋な欲求 身体が必要とするものに基づく 自然で素直な感覚 バランスを保つ傾向がある 欲望 快楽を求める 外的な影響や習慣による 過剰や偏りを生む傾向がある 欲望が純粋な欲求を上回ることは、誰にでも起こりうることです。しかし、そのことに気づき、自分の行動を観察することで、必要なものを選べるようになります。 純粋な欲求は「必要」を意味しています。 気づきは、自分自身(心と体)と向き合う第一歩です。その積み重ねが、より自然で健全な生き方へとつながります。 大

          純粋な欲求と欲望の違い、そして知性 + 正しい自己分析

          塩は私の代名詞

          カロリーって何? 正直に言うと、全然分かりません。 痩せたいと強く願っていた時でさえ、カロリーを意識したことはありませんでした。 栄養素についても同じで、意味が分からず、意識して食事をする気にはなれません。 一般的に体に悪いと言われる食べ物を食べる時も、「これは良くないな」と考えることはありません。 少しだけ栄養素を気にしてみた時期もありましたが、何の効果も感じられず、結局続きませんでした。 カロリーを実際に「体験」できるなら、理解できるのに。 そもそもカロリー

          塩は私の代名詞

          ズレても、絶対的な人

          ずっと好きな人たちがいる。 憧れ、尊敬している人たち。 俗に言う「推し」ってやつだね。 どんなにその人たちを好きでいても、時間が経つと道が自然と逸れていく。 それでも、好きでいることに変わりはない。 手の届かない場所に向かって進んで行ったその人も、やっぱり好き。 だけど、ズレて行ったその人のいましていることには興味がないんだ。 それでも絶対的な人。 それは、その人の本質や存在そのものに価値を感じていて、 表面的な部分には興味がなくなったということなのかもしれ

          ズレても、絶対的な人

          ”ここにいていい、もう何も探さなくてもいい”

          意識してそうしているのではないけれど、私は毎日のように新しいことを考え、毎日何かしら、やったことのなかったことをしています。 この感覚、まるでずっと魔法にかかっているみたいなんです。なんでもスムーズに起きて、私も一緒に流れている感じがしています。完全に自分のままでいるって、こういうことだったのかと静かに感動しているんです。 無理しない日々って、いいですね。その代わり、隠れていた記憶が呼び覚まされたり、流れてくる感情を受け止めたりすることは、ときに大変だったりもします。でも

          ”ここにいていい、もう何も探さなくてもいい”

          光璃姫と4つの宝石 - 小さなものがたり

          遠い昔、光と宝石が共に支配していた王国があった。その王国には、全ての光と輝きを操る力を持つ姫、光璃姫(こうりひめ)が住んでいた。彼女は、魔法の宝石を持つことで知られており、その力は王国の守護者としての役目を果たしていた。 ある日、王国に暗黒の霧が立ち込め、太陽の光さえも遮られてしまった。人々は恐怖に包まれ、光璃姫はその原因を探るために立ち上がった。彼女の手には、輝くダイヤモンド、深緑のエメラルド、情熱的なルビー、そして冷静さを象徴するアメジストが宿っていた。 「暗闇を打ち

          光璃姫と4つの宝石 - 小さなものがたり

          私は 私に・・・

          少し離れて、自分を見ることができるようになった。 自分だと思ってきたもの。 その多くが、実はそうじゃないことに気づく。 自分じゃなかったんだな、と。 これは、親から受け取った価値観だ。 これは、友達の考えの真似。 そんな風に、積もったものを「自分」だと信じていた。 私には、ずっと大きな思い込みがあった。 「自分は惨めで、みっともなくて、もっとちゃんとしなくちゃいけない」。 そんなふうに、自分を責める感覚が当たり前のようにあって、 その「ちゃんとできない自分」が、ずっ

          私は 私に・・・

          形ある喜び

          好きなことに対してわがままに、妥協せず向き合うことで、まるで魔法がかかったかのような瞬間が訪れるんですね。 これは本当に貴重な体験です。 それが鮮明にわかる時があって、その前の産みの苦しみもたっぷり味わいます。 私が最近している自己表現は、長い間吐き出せなくって、重たくなった想いばかり。 想いというより、もっと体で味わっているもの。 でも、それは辛いとか悲しいとかではなくて、感動や喜びです。 感動や喜びって、ただ嬉しい楽しいだけを味わっているのでは足りないのです。

          形ある喜び

          結晶化への願い

          結晶化したい ーー この言葉には、「この瞬間を永遠のように残したい」「儚いものを美しい形で留めておきたい」という願いが込められています。 この比喩で伝えたいのは、写真も、日常の「ささいな一瞬」や「小さな出来事」を、形として残すことで、まるで結晶が光を反射して輝くように、特別なものにできるということです。 結晶とは、ただの水滴や小さな粒が静かに形を持ち、光を受けてきらめく存在。 写真も、目には見えない心の動きや、瞬間の美しさを形として保存するもの。 撮影者の結晶化への願

          結晶化への願い

          自分を映すリアクション

          行動を起こすと必ず他者から何らかの反応が返ってくるものですが、なぜか自分が期待している時ほど、その反応は薄く、時に全くないと感じます。 反対に、自分が何も期待していない時に限って、思いがけない反応が返ってくることがあります。 そして、反応が返ってくるほどに、自分の気持ちを確かめることにもなります。 本当にそれがやりたいことなのか、本当にその相手が好きなのかーーそんな具合に、自分に問いかける機会が持てるのです。 興味深いのは、期待しているときや、反応が薄いと感じるときほ

          自分を映すリアクション