受動的欲求/恐れとカルト
能動的であることは、受動的であることよりも大切であるとされている。千葉雅也『現代思想入門』を読めば、あらゆる価値判断の裏に暗黙の二項対立が走っていることに思い当たることができる。この場合、能動的であることは主体的であることに近く、また積極的であることに近く、それは向上心が”ある”ということに近く、つまりやる気が”ある”ということを意味する。これらは全て、肯定的な意味で用いられる「正解」の側の概念である。特に社会人になると、立場が上の存在から我々のあるべき姿についてこれらの言葉を用いて説明されることになる。ここに反発して、”敢えて”天邪鬼になることは、これまた、こちら側が是であることを前提にした逆張りであるので、フーコー的な考え方でいうとそれもまた支配層の体制を強化することに加担してしまっていることになる。
20代に入ってから、僕は座右の銘に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を据えていきてきた。そんな序盤からそんなものを掲げていては、当然「突き抜けた人材」になれるはずもないので、早々に多くの人とは戦わない選択をして、土俵を降りた。fireである。
何に端を発しての思想なのか、今となっては当人である僕も正確には思い出せない。し、思い出す必要性は今のところ感じていない。とにかく、平たく言えばやりすぎはよくなくて、バランスが大事だという考えであり、なんだか相対主義的で、どっちつかずで責任逃れな考え方にも思えるし、これを人前で発表した時の、その表面的な当たり障りのなさに、あまりポジティブな反応が返ってくることはない。みんな「そんなこと言われても、、、」みたいな顔をするので、こっちが申し訳なくなる。
話を戻すと、要は、これも結局『現代思想入門』で話されていることなのだけれど(それぐらい自分の考えていることがとうの昔に学問として扱われていたことにいたく驚いた)普段僕もある程度能動的であることの価値に依拠した言動をとっていても、実際のところ受動的である瞬間も必要ではある、という、座右の銘にあれを掲げている人間としては当然思い当っておくべき思考に至っていないことに気づいて、これまたえらく感動したのだ。それほどに現代人にとって「受動的」という言葉のもつネガティブイメージは強大である。ただこれは感覚的には流行りの一種であるように思えるが、それはあながち間違ってはいないだろう。むしろ周りのエネルギーの流れに逆らわないという考え方は、むしろかつては非常に支配的だったはずである。
そう考えると昨今の”能動”信仰は、いち人間として持っている力を過信している様は、自分の周りにある、なんだかよくわからない、大いなる力に対する恐れから来ているような気がする。昔恐怖は、そのまま”畏れ”として、象徴的存在への信仰につながったが、今はその恐れという感情そのものへの恐怖から、それを拒絶しようとしているのではないか。「理解できないもの」はあるはずがないという態度のようにも思える。別にいいけれど、それで内側から崩壊する人も多いような。
恐れの総量が変わらないとしたら、その担い手が完全に個々人になっているか、それとも空想上の幽霊や、神や、占いや宗教やになっているか、という差であるというだけなのかもしれない。そのバランスをひとりひとりがとることができたら苦労しないけれど、僕個人としてはそういうことを日々考えている。だから、『現代思想入門』を読んで受動の価値を認識した時に、自分の中でなかったことにしていた”受動欲”みたいなものがむくむくと沸き上がって、同時に今まで受動的にやってしまっていたこと、そこで生まれていた喜びに思いを馳せた。
運命に翻弄されたい欲。僕にはこれがある。
自分が飛び込んだ先で、一体どうなってしまうのか。予測もつかない。対処のしようもない。そこに心惹かれている。予測がつかない、対処のしようもない環境に、興味をそそられる。ここまで言えば、ごく一般的なひとが持つ感情として特に珍しくないことがわかる。未知のものに興味関心をひかれるのは、つまり受動的な欲求なのだ。僕たちはこうまでしないと肯定できない、罪深き現代人なのだ。
目的意識は、時として人を殺してしまう。そんな人生はごめんだ。「大いなる力」なんてカルトかよ、とここまでのある種狂気じみた言説も、こうして自分の為だけにカルトを作りさえすれば、他人を不幸にさせてしまうこともないだろう。受動欲の有効活用。恐れの有効活用。カルトの有効活用。
勿論言うまでもないが、過ぎたるは猶及ばざるが如し、である。
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あざます