「純粋理性批判」の「理性」とは何か
プロイセンの哲学者、イマヌエル・カントの著作「純粋理性批判」についてのメモです。
時代はフランス革命直前。当時のドイツ語文化圏はプロイセンとオーストリアを中心に、いくつかの領邦国家に分裂していました。
東方辺境のプロイセンでは封建反動が進み、近代国家の形成は大きく遅れていた、そんな時代背景です。
カントの認識論は、デカルトやスピノザの合理論と、ロックやヒュームの経験論を統一して打ち立てられたとされています。
「純粋理性批判」でカントは、人間の認識可能な領域の限界線をハッキリさせることで、普遍的な認識、共通認識がどこまで可能であるかを明らかにしようとしています。
以下メモ。
人間の認識は、
「感性」→「悟性」→「理性」
という構造(装置)を通じて作り上げられる。
「感性」とは
外部データを採取し、直感を与える能力。
私たちは感性により対象を知覚し、認識する。
対象はあくまで、感性により得られたデータを素材として認識される。
感性によって得られないものを認識することは不可能。
(物自体は確かに存在するが、感性は時間と空間によって限定されているため、物自体を感性によって捉えることはできない。)
「悟性」とは
概念を把握する能力。
感性によって取得されたデータはバラバラでまとまりがない。
それらを束ねて統合するのが悟性。
悟性は、直感をまとめ上げるための枠組みを持つ。
人間はその枠組みを使って対象を認識するのであり、この枠組みを通さなければ何も認識の対象とならない。
(悟性は自らが持つ枠組みに従って独自に働いてしまう。そこから得られるのは単なる仮象だが、これは本性にもとづく錯覚である。)
「理性」とは
原理から出発し、完全なものを見出そうとする能力。
全体性をめがける問いは理性から発せられる。
感性は時間と空間により規定され、悟性は枠組みによって規定されたように、理性は経験に先立つ理念(先験的理念)によって規定される。
「主観」「世界」「神」それぞれの完全性が先験的理念である。
人間は悟性の生み出す仮象に欺かれて、理念があたかも実際の世界に適用可能だと考えてしまう。そうして経験可能な領域を超えてしまう。
例えば、理性は「世界は完全である」という理念を持つ。
悟性は経験認識によってその理念の正しさを証明しようとする。
しかしそれは原理的に不可能である。
ある命題とそれに反する命題が互角に成立してしまうために、どちらの命題が真であるとも決定できない状態のことをアンチノミーという。
絶対的な答えを持たない問いに対して、正命題と反命題、どちらを選ぶのか。
正命題を選ぶ人は、世界の全体像を独断的に示そうとする。
正命題は通俗的で理解されやすい。
反命題を選ぶ人は、世界の全体像を捉えることに否定的だ。
正命題に対するアンチであり、不人気であるが、独断的に否定しなければ悟性にとってよい基準となる。
世界全体を捉えようとする試みはアンチノミーによって形而上学に陥ってしまう。
理性が本当に向かうべきは世界の全体を知ろうと試みることではなく、道徳の本質を規定することにある。
理性はそれ自身が行為の原因としての役割を果たす。
人間は自然法則に従う存在であるのと同時に、理性による自由を持つ存在である。
カントは哲学の問いを認識論から倫理学に移行させた。
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