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【滝口寺伝承(2)火宅の女③】
真実(まこと)
「帝は、近ごろ新しい女御に心染めているそうです。更衣になられたその某(なにがし)の君はまだ齢十五です。内裏の花の色は移ろいゆきます。私もまた旧き(ふるき)もの。」
「後宮には帝ひとり。帝にかしづく女御は廉子様はじめ二十数人おります。私の知らない間にいなくなられた女御もいらっしゃいます。帝の御寵を競いあう情念の炎と炎のぶつかり合いは、互いを焼き尽くすまで続きます。
『帝の寵幸をうけよ、おたねをやどせ、さもなくば実家(さと)に戻ること許さぬ。』と父上殿に言われるがままに後宮にまかり越したものばかり。
五欲六塵にまみれた火宅……そこに人の世の真実(まこと)はありましょうや。
私のように病床く(いたつく)もの、そして……差し出されるもの。
命あるならまだ良いかもしれません。後宮の生霊に取り殺されたものもいましょう。
私は籠の鳥。私は人形……。」
雨はさらに強くなり、ふたりの離亭の茅葺を打ちつけます。
◇
ひと頻り泣いて落ち着いた内侍に義貞は訊ねます。
「……あなたはどのような真実(まこと)が知りたいですか?」
「この世の真実が知りとうございます。
私は実家と内裏よりほかのことを知らないのです。この都がどのようになってるのか、嵯峨や貴船がどちらにあるのかも知らないのです。」
「そうですか。都に生まれながら春を楽しんでこられなかったとは何とも気の毒に。それでは今度、この義貞めと仁和寺にでも参りましょうぞ。そうだ、清水の桜も評判ですぞ。」
内侍は、はじめてまことの男の優しさに触れた気がして、少し鼻を啜り、そして「はい、」と微笑みました。
夜をこえて
「それから、私も女に生まれますれば……女と男の真実を知りとうございます。この世には女と同じ数の男が居て、つがうと聴きました。それはまことでしょうか?」
「ま、まぁ内裏のそとは だいたい……そうなっております。」義貞は言葉を選びながら答えた。
「そうでしたか……。」
ひと息、吸い込んでから内侍は、義貞に訊ねます。
「あの、人形の私に、殿の真実の心を聴くことは許されるのでしょうか?」
義貞に憐憫の情がこみ上げてまいります。
「あなたは人形ではありません。私の想われ人です。魂がないならば私が入れてみせましょう。
ここはもう、念ずる(我慢)場所ではありません。どうか、御心を義貞に解いてくれませんか……。」
◇
剣の門
いつの間にか雨は上がり、陽光がふたりを包みます。
義貞はちらちらと、内侍を眺め、「こうして、いとしい妻(め)と朝餉(あさげ)ができるとは……。」と、僥倖を噛みしめます。
火宅から逃れ、義貞の妻として生きることとなった女(ひと)は、たおやかな笑みを浮かべ、その美しさは昨夜より何倍にも耀いております。
◇
「あの、殿、義助(弟)様がお待ちです。お支度を。」襖の向こうから新兵衛の声がします。さきほどから二回目だ。
「うー。わかった、わかった。今いく。またせておけ。」
「(堀口)貞満様が、殿はまだかと私を責めまする。あとどれほどでしょうかー……?。」新兵衛の悲痛な声に、内侍も義貞に目配せする。
「しか…らば…。」義貞は名残を惜しみ、重い腰を上げます。
「春雨の降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人しなければ」
(春雨は涙なのでしょうか。桜の花が散るのを惜しまない人はいません。)
内侍は庭を見やり、こう歌いました。
「さすが内侍は、随分旧い歌をご存知ですなぁ。」義貞は感嘆して部屋を後にします。
◇
表座敷に待たせておいた義助と堀口貞満は、苛立ちを隠せません。
「兄者!」「殿!」同時に怒鳴られて、浮わついていた義貞は現実に引き戻されます。
「尊氏、挙兵す!」
貞満からそれを聴いて、義貞はそれほど驚きませんでした。先ごろ義貞らが都から追い落とし、九州まで逃れたものの、尊氏らとの勝敗はほんの紙一重でした。
世間では神速の挙兵などとと言われるかもしれませんが、風神雷神の尊氏、直義ならば、さもありなん、と義貞は思います。
尊氏の大徳と直義の鬼謀。乱世ゆえに足利兄弟の元には人が集まり、やがて大きなうねりとなるのは必定。
かねてより義貞は、足利兄弟を鎌倉の一御家人ではなく、当代の英雄であるとみていました。
新田と足利の決戦は宿命。いよいよ雌雄を決するときがきたのだ、と思いました。
「河内殿(楠木正成)、名和(長年)殿も参内しておりますゆえ、殿も早くお支度を!」貞満に促され義貞も頷き、「是非ない」と、奥へと戻りました。
◇
「内侍……ちといろいろありましてな。戻りが遅くなるゆえ身の廻りのことは家の女か、新兵衛に頼むがよいですぞ。花見がしたければ輿に乗って見て参られるがよい。」
「戦……ですか?」雰囲気を察知した内侍は怪訝な顔をする。
「まあ……そうです。」ふぅとため息をついて義貞は、「武家にとって戦は宿命(さだめ)。武門はすなわち剣の門。あなたは折角火宅から逃れたというのに、剣の門に入ってしまったかもしれません。義貞めをお許しください。」
「それはもとより覚悟のこと。私はもう人形ではございません。この身ある限り、ここに居ります。」
憂いの晴れた義貞は内侍に訊ねます。
「そうそう、内侍は入内の前、兄上殿らからなんと呼ばれていたのですか?」
「私は末の妹ゆえ、『すゑ』と呼ばれておりましたが、それが何か?」
「そうでしたか。先ほどの歌、お返し申し上げる。」
「春雨の降るは涙か桜花 京の都の麗しきかな」
「あなたはもう宮仕えではありません。内侍と呼ぶこともさしつかえがございますゆえ、今日から麗子(れいこ)と名乗るのはいかがか?」
「麗子……よい名前。ありがたき幸せに存じます……。」
「しからば、麗子。すぐに戻ってくるゆえ。」
風雲急を告げる京。ふたりのときはまさに春の夜の夢の如し。
火宅の女(ひと)④につづく