ヘルシーな喧嘩のコツを考える。
先日ドイツの語学学校と少し揉めた。
ざっくりまとめると、先生の指導方針と人間性が私の語学レベルや人間性とミスマッチを起こし「勉強したいけど学校へは行きたくない」という状況になってしまったという感じだ。
(細かいことはこちらの記事をどうぞ)
こうやってまとめると、私のやる気や粘り強さが足りなかったようにも見えると思う。実際、そうかもしれない。
しかし先日、無事に問題は解決した。
完全にこちらの要望が叶う結果になった。
そのうえ私は揉めごとが終わった後すぐ、揉めていた学校に用があって行った。そこでメールのやり取りをしていた事務担当の方ともたまたま会い、軽い挨拶をして笑顔で別れた。まさかいるとは思わず驚いたけど、特に重いやり取りをすることもなく帰ってきた。
朝まで揉めていたのに、午後に会ったときには普通に会話できるなんて今まであっただろうか。
ドイツ、というかヨーロッパの人たちは比較的ドライな人が多いけれど、私も会えて良かったと純粋に思え、心もスッキリとしていた。揉めた後に関係者と会ってこんな気分になったことは、今までになかったと思う。
今の心持ちを例えるなら、スポーツで試合した後に「いい試合だった」と敵の選手同士で握手をし合うような感じだろうか。
遺恨を残さない「ヘルシーな喧嘩」が出来たような気がする。
ドイツという環境や今回の状況、そしてnoteを通じて見守ってくださった方々のおかげも多分にあるけれど、今回のことで学んだ「人との健康的な議論(もしくは喧嘩)」の仕方を備忘録も兼ねてまとめておこうと思う。
ヘルシーな議論をするために大切なことは、
我慢しすぎず、
冷静に意見交換ができるうちに
してほしいことを言ってみる。
これに尽きる気がしている。
もちろん今回は生徒と語学学校という、ある意味「客と店」の関係だったというのもある。ただ気になることを我慢し続けたあとに揉めると、相手を徹底的に追い込みたくなるし、真摯な謝罪や金銭的な補償を受けても許せなくなってしまう。
そして相手を追い詰めようとすればするほど、相手も自分を守るために反撃してくるし、泥沼化していくのだ。
その中でも特に大事だったと思ったことは、「我慢しすぎない」ということだ。
「 我慢 」は日本人の美徳とも言われるスキルだと思う。
もちろんそれが良い結果を生むこともあるのだけれど、我慢を蓄積してから出すと自然と問題についての指摘が遅くなる。
すると言われた方も驚いて、「今まで大丈夫だったじゃん」とか「なんで今さらそれ言うの?」という、二次的な問題が起こることもある。
たぶん、「 我慢 」は塩梅がとても難しいものなのだ。
限度も人それぞれ違いがあるし、溜まり方にも個人差がある。
どこまで我慢するのが「 正解 」というのも、あまりはっきりしていない。ときどき「我慢が足りない」などと言う人もいるけれど、それは個人もしくはその人の周りの人の平均値がベースとなった「足りない」という評価であって、社会とかもっと大衆の平均というのとも違う気がする。
どこまで我慢すると偉いとか、そういうものでもないと思うのだ。
そして大抵の場合、ずっと我慢することで限界を迎え「 爆発 」する。
この「 爆発 」は、自分の心や体の健康を壊す人もいるし、相手を傷つけたり社会地位を貶めないと気がすまなくなってしまう人もいる。「 爆発 」の仕方は人それぞれだけれど、「感情が爆発する」ときは大抵の場合、その前に「我慢」がある。
「 我慢 」しているということは、いつか爆発する「 時限爆弾 」を抱えているのと同じことだ。しかもこの時限爆弾は明確なタイムリミットがなくて、いつ爆発するか分からない。
そんな状況のまま築かれる人間関係は、あまり健康的とは言えない。世界中の歴史にも民族や民衆、国など、誰かを我慢させたことで、後に大事件になったことがたくさんある。
大抵の場合「我慢」と「爆発」はセットだ。
爆発すると自分にもダメージがあるし、かなりの確率でそこにある人間関係が壊れる。だから、自分がこっそりと我慢という時限爆弾を抱えないことが、人間関係においては大事なことということになる。
むやみに爆発をさせないためには、冷静でいられるうちに自分が堪えていることを打ち明けることが大切になってくる。
打ち明けるときに大切なことは、「私とあなたの間にこんな問題が発生している」という事実を軸とした話し合いを提案し、「私はあなたにこうしてほしい」という要望まで持っておくことだ。
「私はあなたのせいでこんな苦労をしている」というやや被害者のような前提で話を始めてしまうと、実際に相手に非があっても相手は受け入れにくくなってしまう。自分が加害者だと言われて、嬉しい人はいないからだ。
だから二者の間で発生している「問題」として話を進めたほうが、相手が引っかかるところは少ないし、引っかかるところが少ないほうがより早い問題の解決につながる。
私も今回学校と揉めた際に「先生が悪い」という感じでは内容を書かなかった。先生と私の間で起きた問題と、その問題に今の私のスキルでは対処出来ないからクラスを替えたい、という感じの要望を出した。
どっちが悪いかという議論は要望を叶えることとは実はあまり関係ないからだ。
最近SNSなどではニュースやゴシップに対して、「どっちが悪いか」「どっちが勝ちか」みたいな二項対立で議論しているのをよく見かける。「勝つ」ということで承認欲求や日頃の鬱憤をはらしているのだと思う。
けれど実際、物事が進んだり解決することと、そういう二項対立での勝敗は必ずしもイコールではない。裁判なら勝敗が大事かもしれないけれど、日常的な揉め事においては、勝ったから物事が円滑に進むかと言ったらそうではないのだ。むしろ勝敗をはっきりさせることで遺恨が残ることが多いような気がする。
だから自分の「 要望 」という一定のゴールを設定しておくことで、それを達成したらそれ以上のことを求めずに引く。もし要望に対して相手に難色を示されても、そこを調整する方向で話ができるし、何より一旦感じていることを伝えるだけでも、ガス抜きもできる。
結果的にあまり変わらなかったとしても、言うために使った勇気が無駄にならないのだ。そして言ってもダメだと分かれば、諦めて他の方法を考えるきっかけにもなる。いずれにしても前に進めるのだ。
私は今まで何かと我慢しては、爆発することを繰り返してきた。
そんな爆発してしまう自分に嫌悪することも多かった。
我慢をするし爆発するしそんな自分に嫌悪するし、全くヘルシーじゃなかった。
でも、今回の出来事で健康的に議論をしていく感覚が少し身についたような気がする。日本にいると喧嘩以前に、議論すら引かれてしまうことも多い。「いい関係を築くために意見し合う」という機会が少ない気がして、少しもったいないと思っている。
もちろん意見をすれば返されることもあるし、自分の至らないことを指摘されることもある。それはおたがいさまであって、欠点のある自分が負けというわけでもない。
私の思う「ヘルシーな議論」は、お互い欠点を持ちながら、どう心地いい関係でいるかを確認し合うための行動なのだ。
それを健康的にするためには、限界まで我慢したところでは落ち着いてできないし、相手を責める前提でも、勝ち負けばかりに目がいくばかりでもいけない。早めの対応と、攻撃的ではないスタンスが大切なのだと思う。
日本で育った人の真面目さや失敗をしないための努力はとても素晴らしい。海外に来るとなおのこと、仕事の正確さや勤勉さを強く感じる。
ただどれだけ真面目に頑張っても、人は失敗するものだし、人が集まれば何かしらトラブルは起きるものだ。
そうなったときに素直に考えていることを言え、自分が誰かに言われたときも、素直に耳を傾けられる心の余裕が大切な気がしている。
そういう心の柔らかさと余裕が、心身の健康や幸せに繋がっている。
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