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時計なんか恐くない

「どうせ明日も晴れるから洗濯は明日でいいや」と怠けた次の日は、たいてい微妙な曇り空。
干せないわけでもないけれど、絶対昨日のほうがよく乾いたなと思わせる空。

こんな空の日に私は本を読むことが多い。(もちろん生乾き覚悟の洗濯は済ませた)
自然光で読むのが好きで、時間が経って外が暗くなり、いよいよ目に悪いので部屋の電気を点ける。
はあ休日もお終いか、と実感する瞬間でもある。

忘れられない本がある


何年か前、祖母の本棚から拝借した向田邦子さんの『夜中の薔薇』。
祖母はこの本を発刊時に購入していたようだから、開いた瞬間の古い本の匂いと昭和の時代を感じるフォントの印字が気に入った。

その中に収録された「時計なんか恐くない」というエッセイを読んだ私は、思いがけず嗚咽してしまったのだ。

当時私は28歳。
10年暮らした街から地元への帰郷を決心、おまけに学生時代から付き合っていた彼との予想だにしなかった壮絶な別れも食らった。
なぜ自分がここにいるのかも分からないような状態で10年ぶりに故郷に帰ってきた頃だった。

だんだんと楽しくなってきた仕事
10年暮らして居場所ができた街
ほぼ生活の一部と化していた彼
その全部を失くして、私は一体ここで何してる。そんな虚無感でいっぱい。
大切な10年を無駄遣いして捨ててきてしまったかのような気持ちだった。

そんな私に向田さんは言ってくれた。

時計は、絶対ではありません。
人間のつくったかりそめの約束です。
もっと大きな、「人生」「一生」という目に見えない大時計で、自分だけの時を測ってもいいのではないでしょうか。

向田邦子「時計なんか恐くない」『夜中の薔薇』講談社 1981年

「これから先、まだまだ人生は続くわよ。お前が嘆いてる10年なんて、長い一生のうちのほんの少しのかわいい時間だよ、それっぽっちで泣くんじゃないわよ。」
自分なりにこう受け止めて、そしたら嗚咽していた。

嗚咽した私は30代になった

あれから数年、30代に突入した私は元気に生きている。
捨ててしまったと嘆いた10年は想像以上に今の自分の糧になっていたことを知ったし、あのとき嗚咽した自分を「やすこちゃん、えらかったよ。ありがとう」と抱きしめてあげられるくらいには強くなった。
ありがとう、向田さん。
ありがとう、当時のやすこちゃん。

どんな毎日にも、生きている限り「無駄」はないと思います。「焦り」「後悔」も、人間の貴重な栄養です。いつの日かそれが、「無駄」にならず「こやし」になる日が、「あか」にならず「こく」になる日が、必ずあると思います。真剣に暮らしてさえいれば―です。

向田邦子「時計なんか恐くない」『夜中の薔薇』講談社 1981年

この数年間、私なりに真剣に暮らしてきた。
新しい仕事をして、8年ぶりに運転をして、苦手だった掃除をして。
できなかったことができるようになり、考えもしなかった生き方を受け入れるようになった。
世の中はめまぐるしく変わるし、大変なことも多いけれど決して悪いことばかりではないし、晴れの日だってある。

あのときの嗚咽が「こやし」になり「こく」になっているのだとしたら、
年を取るのも恐くないし、時計なんか恐くない。

生乾きだって恐くないのだ。










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