なじませてゆくための教え
しめっぽい話ではありません。
どちらかというと前向きな話です。
#同じ時間にごはんとお水
彼(猫)が亡くなってからも生前と同じ時間にごはんとお水を用意して、
いまや花々で祭壇と化した“お骨場”のマントルピース上に置く。
おりんではなく、ボタンを押すと「ニャーン」と鳴く貯金箱で、
“ごはんだよー”を知らせる。
この貯金箱は、彼が生前、都度自発的に何かの拍子でボタンを押し、
僕ら夫婦にコンタクトをとってきた謂わば通信手段だった。見出し画像参照。
だからおりんなんていう新参者より、
我が家での彼の呼び寄せには、貯金箱の方がよほど定評がある。
今朝も彼のごはんを用意しようとしていたら、
妻が「四十九日だねー」と言った。
#日々に馴染む
あ、そっか、四十九日。
忘れてた。
いや、正確には忘れてなかったけど、何だか脳裡に固定していなかった。
スケジュールにも入力しておいたのに。
彼が亡くなった日とそこから数日、
まぶたがふやけて二度と開閉できなくなるのではないかと思うほど泣いた。
初七日の頃、悲しくて寂しかったけど、涙は止まっていた。
今日、生前と同じ寝ぼけ顔で、いつも通りのごはんをあげようとしていた。
そういう意味では、起きてからごはんを用意するまで四十九日を忘れていた。
この生活が少し馴染んだみたいだ。
・・・・・
我が家は仏教の浄土真宗のウチということになっているが、
なぜ“なっている”かというと代々のお墓は浄土真宗のお寺にあり、
お葬式はそれにならった仏式でやってきたからで、
例えばじゃあなぜ浄土真宗か、さらには仏教かというと、
確固たる信念があるわけでも比較したわけでもないが、嫌なこともない。
その証拠に祖母だけは熱心なクリスチャンだったので、
祖母のお葬式だけは教会で、親族一同も違和感なく讃美歌を歌ったりした。
あったのは神聖で厳かで偲んでいたい気持ちだけだった。
僭越ながら下調べもなく個人の解釈だけ書くことをお許しいただきたいが、
宗教とは、仏様やキリスト様の考えを庶民にもわかり易く説くことで、
皆が生活の一部に取り込めば心の支えにできるようにしたものだと思う。
例えば初七日や四十九日も、“一つの目印にすぎない”のかもしれなくて、
誰しもがいずれ向き合う「死」というもので我を忘れないように、
最初はとてつもない悲しみををいだくけど7日くらいで落ち着いてきて、
さらには、7週間も経てば日常を取り戻せるから「負けるなよ」、みたいな。
キリスト教に初七日や四十九日に似た概念があるのかないのかもわからないが、
人が死と向き合う上での教えは同じくたくさん説かれていることだろう。
でもきっと要約すれば、「大丈夫、大丈夫」と書いてあるはずだ。
なぜ大丈夫と書いてあるだろうと想像できるかといえば、
それは仏様やキリスト様も、大丈夫と乗り越えたかっただろうと考えるから。
もしくは仏様やキリスト様の教えになぞらえた民も代々そう願ったはずなので、
例え最初の頃の教典には「あんまり大丈夫じゃない」と書かれていたとしても、
徐々に軌道修正して「なんとか大丈夫」の解釈に今はしているだろうと信じたい。
※重ね重ね勝手な思い込みをお許しください。冒涜ではありません。
宗教や死というものへの心の寄せ方をこう捉えたら腑に落ちた、という話です。
#四十九日の朝に
彼が亡くなってからも生前と同じ時間にごはんとお水を用意して、
いまや花々で祭壇と化した“お骨場”のマントルピース上に置く。
おりんではなく、ボタンを押すと「ニャーン」と鳴く貯金箱で、
“ごはんだよー”を知らせる。
今日、彼がちょっと遠くに行ってしまってから49日が経過した。
まだ寂しいけど、もうだいぶ落ち着いて、少しは大丈夫になった。
49日が経つと、「成仏」ということが起きて、
あたかも雲間からお骨に光が射し、魂が霧のように散らばり...と、
さらに遠くの取り返しのつかない場所へ行ってしまう状況を想像したけど、
それは四十九日や成仏の上辺だけを解釈した大きな誤解だったと気付けた。
49日も経つと、彼の魂も落ち着く場所を見つける頃という意味で、
そんな落ち着いた様を想像して生きている側が安心できる頃という意味で、
決して霧となった魂に今生のお別れを叫ぶ日ではないということだ。
だから50日目の朝も、ごはんを置いてニャーンを押そうと思っているし、
いつか毎日のごはんを置かない日が来ても、それはそれで良しとするつもりだ。
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