小川洋子「人質の朗読会」
初版 2014年2月 中公文庫
あらすじ
遠く隔絶された場所から、彼らの声は届いた―慎み深い拍手で始まる朗読会。祈りにも似たその行為に耳を澄ませるのは、人質たちと見張り役の犯人、そして…。人生のささやかな一場面が鮮やかに甦る。それは絶望ではなく、今日を生きるための物語。しみじみと深く胸を打つ、小川洋子ならではの小説世界。(アマゾン商品紹介より)
・・・ネタバレあり・・・
始めは何か観念的な世界観の話かと思ったけど
リアルに南米のテロリストに拉致されて人質となった日本人8人の話です。
ハリウッド映画ならヒーローによって最後は救出されてハッピーエンドとなるはずが、
小川さんはそんなに甘くないんですね~。
8人全員爆死、という衝撃のラストを冒頭にあっさり明かされます。
事件から2年後、国際赤十字が差し入れた救急箱などに仕掛けられていた盗聴器で、人質たちの音声が録音されたテープの存在が明らかになります。テープには人質8人がそれぞれ心に残っている出来事を物語として書き起こし、各人が朗読する声が収められています。
事件後、遺族を取材していたラジオ局の記者はテープが被害者が確かに生きていた証になると重要性を説き、かくして遺族の許可を得てラジオ番組『人質の朗読会』が放送されることとなります。
構成としては、その8人のエピソード、プラス盗聴人自身が最後に自分の話を綴る、9編からなる短編集のようなものとなっています。
この人質たちのエピソードが小川さんブシで・・・
とりたててドラマチックでもなく、武勇伝的な自慢話もなく、
ささいな日常のちょっと物寂しいエピソードです。
人質たちがおかれている状況も、語られるエピソードも
決して前向きなものではないんだけど、
悲壮感はなく、むしろ、ほのかな温かさが漂います。
そこにあるのは、小川さんの静謐な文章の中にも
微妙なニュアンスでちりばめられているニヒルなユーモアと、
決して甘くない現実を真摯に見つめながら、そこにこそ好日を見出そうとする
視点ではないでしょうか・・。
特に心に残ったのは第6夜「やり投げの青年」
59歳の女性の話で、通勤電車の中でやり投げの槍を筒に入れて抱えている青年と出くわし、
彼が周りの人から迷惑そうな目を向けられ、恐縮してちじこままっている姿をみて、彼がなぜか気になり、ついつい、後をつけ、誰もいない競技場でやり投げの練習を始めた彼を、会社をずる休みしてそのまま見学して、特に彼と接触したり会話したりすることもなく、そのまま帰るという話です。
その中の1文
こうして合わせた両手から次々と水がこぼれ落ちてゆくように皆がとおざかってゆくのを、
私はただ黙って見送るばかりだった。自分の掌に視線を落とせば、そこにはもうささやかな空洞があるばかりで、こぼれ落ちるべき何ものも残ってはいなかった。
その空っぽを見ないようにするため、私は目の前の雑用に専念した。他人に認めてもらおう、自分を高めようという望みは抱かず、むしろ他の誰がやってもできる種類の仕事にこそ無心で取り組んだ。いくら丁寧に花瓶の水を換えようとお茶を淹れようと、私の痕跡はどこにも残らない。それでよかった。会社でもどこでも、私など最初からいないかのように振る舞った。夫がここにいないのと同じく、自分もここにいないのだ、と思うことで夫を近くに感じようとしていた。これが、青年と出会った時の私だった。
(本文159Pより)