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瞑想の怪しさと大切さ

瞑想は宗教的なイメージが根深く今でも怪しさがあります。特に日本ではカルト教団の影響もその怪しさを引き立たせているでしょう。

そんな怪しさをできるだけ取り除き、科学的な見地から理論立てしたのがマインドフルネスである、というはずでした。

しかしながら、amazonで「マインドフルネス」を検索すると、人の弱みにつけこんだ、あたかも救済してくれそうな文言が表紙や帯に並ぶ本が上位にたくさん出てきます。

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「自分を浄化する」「人生も仕事もうまくいいく」「自分を保つ、不安をなくす」「自分を変える」など、宗教か自己啓発かを連想させるような単語が、科学的なはずのマインドフルネスに怪しさをまとわせてしまっています。論文の情報量で圧倒するスタイルのDaigo氏など煽動するタイプの人が表紙を飾るというのもなかかなの怪しさです。

一方で、瞑想のような心の観察行為の重要性は確実に上がってきています。

スマートフォンやWEBサービスの普及で情報の波に溺れそうになって、心のキャパシティに余裕がなくなってきていることもその要因の1つでしょう。

心の仕組みが解明されていくにつれ、錯覚や歪んだ認知を現実と捉えてしまうことがわかりつつ心の扱いを変えざるをえなくなってきていることもあります。そのために心を俯瞰して捉える必要がありますが、自然に身についていくことではないためトレーニングが必要です。そのトレーニングが瞑想と同様な心の観察だったりします。

というわけで、まずはマインドフルネスを含めた瞑想の怪しさ要素をふるい落とし、心のトレーニング要素だけに絞り込み、その大切さについて説明していきたいと思います。

先にお伝えしておきますが、瞑想でもメンタルトレーニングでもそれらを語る人は心の弱い人がほとんど。先のDaigo氏もメンタリストをされているくらいなので、きっとそうでしょう。自分ももれなくそうであり湯葉メンタルをなんとかしたい一人であって、悟りに近づいている人ではないであしからず。

瞑想・マインドフルネスの怪しさ

繰り返しになりますが、瞑想に取り組む人は何かしら心の弱いところを抱えているものです。そんな心の弱いところを突いてくるマーケティングはいかがなものかと思います。

というわけでまずはAmazonに並ぶマインドフルネス本に付けられている怪しいコピーを切っていきます。

「人生も仕事もうまくいく」「仕事と人生を飛躍させる」

万能薬エリクサーとしての瞑想なんでしょうか。瞑想でみるみる人付き合いがうまくなり、仕事の能力も必ず上がるなんとことはありません。
瞑想で得た気づきにより人生観を変わった、という文献は確かにあります。瞑想を始めた後に仕事が上手く進み出した、なんて事実もあるかもしれません。しかし、それはあくまで瞑想の副作用だったり瞑想以外の要因も含めての結果でしょう。少なくても瞑想のみでいきなり人生が180度反転するなんてことはありませんよね。

瞑想の大きな問題の一つは、瞑想で得られる効果や成長の実感が得にくいことかと思います。なのでもし人生が変わるとしても、0.1度ずつの変化とかそういう微細な積み重ねになるでしょう。だから、人生が変わることを期待して瞑想をすべきではないのです。

「自分を浄化する」

魔法少女まどかマギカのソウルジェムのように自分の穢れが可視化できていれば、グリーフシードを魔女から得ることで浄化を確認できるかもしれません。これはもちろんフィクションの話です。

スピリチュアルな方々に自分の浄化を求める傾向がありそうではありますが、自分の精神は輝くほど清らかなのが本来の自然な状態というのもフィクションです。瞑想をしても、真の自分もしくは高次元の自分になることや、宇宙の源(ソース)につながること、願望の実現を引き寄せることは絶対にありません。

信仰は自由ですが、物語である浄化された自分になるために瞑想をすべきではないです。

「今、ここ」

瞑想やマインドフルネス界隈ではもうお題目のように唱えられているため、怪しげな単語に成り上がってしまっています。それゆえ「今、ここ」は本の表紙やタイトルにも採用されがちです。
未来への不安でもなく、過去の後悔でもなく、今ここに集中する、というのが瞑想のあるべき姿なのだとは思います。本質はその状態であり、決して言葉にあるわけではないでしょう。界隈が「今、ここ」と繰り返しても、「『今、ここ』にいなきゃダメだ」「『今、ここ』できてるぞ、自分いけてるわ」みたいに単語に執着して瞑想すべきではありません。

「不安をなくす」「ストレスをなくす」「心を癒やす」

最後、表紙に最も多く出てくるストレスがなくなることを目指す言葉たちです。これは、メンタルが弱っているから瞑想を始める、というパターンが多いからであると予想します。

確かに米国の心療内科では臨床的に取り組まれていることから、メンタルヘルスに対して効果があるという科学的証拠があるとは思います。

マインドフルネスがストレスを減らすというイメージがあるのは、マインドフルネスの原典とされている本であるジョン・カバット・ジン著の「マインドフルネスストレス低減法」というタイトルからも見てとれます。

しかしながら、この日本語タイトルには問題がありそうです。

原著のタイトルは"Full catastrophe Living" です。本文の翻訳では「やっかいごとだらけの人生」という意味合いになってます。

そして本の内容的にも、人生から問題や悩みなどやっかいごとからくる不安や苦しみを追い払おうと躍起になるのではなく、不安や苦しみをそのまま受け入れて心のバランスを取り戻そう、そのためのトレーニングあるよ、ちょっと時間かかるけどトレーニングしよう、というものです。

確かに瞑想をすることで不安や苦しみが弱まったように感じることがあるかもしれません。ただそれは、あればいいくらいの副産物であって、不安やストレスがなくなることを期待してしまうと、そういった新たな欲望を増やし苦しみループ戻るだけです。だからこそ、不安やストレスから逃れる、または癒やしを求めて瞑想をするべきではありません。

心のトレーニングで大切なこと

自分の浄化や不安の解消が目的じゃないと。
だからといって瞑想のような心のトレーニングが自体が不要というわけではないと。

では何のために瞑想など心のトレーニングをするか、です。

結論から言うと、自分のコントロールできるところと、コントロールできないところを知るためです。さらには、もっとコントロールできるようになるため、コントロールできていないところをコントロールできるようにするためです。

つまり、大切なのはコントロールための知識と技術の習得です。
コントロールための知識を得て技術を身につけるけていくことが心のトレーニングとなります。

じゃあ心、つまりは感覚感情思考は、どこまでコントロールできるのか?

周りが寒いからといって寒いと感じる感覚ボリュームを下げて感度を落とそうなどはできません。笑うなどの感情も完全にはコントロールできないからこと「笑ってはいけない24時」などの番組が成立します。
では、思考はどうでしょう? 思考を止めようと思った場合、止められたとしても息を止めている時間くらいの数秒とか長くても1~2分でしょう。

それら心に関する知識を得ることがまず必要です。

心とは何か?
自分とは何か?

これらの疑問に答えられる知識が求められますが、先ほど切り捨てた宗教的・スピリチュアル的な見解や、古典の心理学・哲学・自己啓発的の見解ではなく、ここでは2020年代のモダンな科学的な神経生物学や進化論の見解を採用してみましょう。

まず、心とは何かについてです。

モダンな科学の見解では、心はモジュール、つまりは進化によって遺伝子に設計図が刻まれた論理的モジュール器官の集合体、というのが回答です。なんかしらのトリガー刺激がこのモジュールの組み合わせのどこを通るかで、感覚・感情・思考が決まってくるというわけです。

モジュール

モジュールの組み合わせ

心のモジュール論については、以前書きましたので詳細はそちらを確認ください。

心に魂や自由意志などスピリチュアルでロマンティックな部位は一切なく、心は生化学的な論理演算回路の組み合わせの出力、というわけです。

「自分はそんな機械みたいなものではない!」と感じるかもしれません。
問題はそこです。脳には「魂・自由意志がある自分」を感じるモジュールがあることです。自由意志の存在はわからないが、自由意志を感じる部位が存在する、ということになります。

人は、頭の中の意識という舞台に自分という主人公がいるかのように感じ、それを自分と思っています。残念ながら自分というのは脳か体のどこかのモジュールの出力の産物で、他人を自分に有利に動かすことが潜在的目的の虚構の物語です。鳥の雛がお腹いっぱいだけど親鳥が餌を持ってきたらピーピー泣くのは、他兄弟よりも栄養が得られるよう親を動かすためのアルゴリズムですが、自分というのもその延長なのです。

自分とは何かについても以前書きましたので詳細は読んでみてもらえると嬉しいです。

心には、トリックアートなどで視覚が錯視するのと同様に、様々な錯覚があります。自分という感覚もその錯覚の1つです。

あえて宗教的な言葉を借りるならば、心で感じるものは全て「空(くう)」です。虚構、フィクション、気のせい、錯覚、Voidなのです。

そして「心は自分ではない」という恐ろしく直感に反する感覚から距離を置くことを試みること、その距離を置いて力を鍛え続けることが、心のトレーニングというわけです。

心のモジュールにより自動に湧き出てくる心の感情・感覚・思考は、冬の北風のようにコントロールできるものではないのです。北風を、ただやり過ごすか、耐えられる体力をつけるというコントロールできることをするしかありません。

瞑想の怪しいコピーは「北風がなくなります」と言っているわけです。
そんなものは遺伝子が意志で書き換わるくらいありえない話ですよね。

まとめ

情報伝達スピードが加速して、自分の心の内だけでなくSNS上で自分という物語を作ってしまう時代です。そういった虚構の物語に取り込まれるのではなく、距離を置けるよう心のトレーニングすることがなおさら大切になってくるでしょう。

だからこそ瞑想やマインドフルネスの広まってきているのだと思います。しかし、瞑想やマインドフルネスをしていることを自分というキャラ付けに使ってしまっている方々が散見しています。

そういった人でも、自分を含めまだ心のトレーニングが必要な人も、コントロールできない心の苦しみへのキャパシティが広がって、苦しみが薄まっていければいいなと。そして、コントロールできるところをコントロールすることに集中できるようになっていくことを願ってます。


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