コミュニケーションも本かもしれない
第2章 本は定義できない (8)
人はそれらのコンテンツを通じて、自分がこれまでに得てきた経験や知識と照らし合わせながら、様々なことを思い浮かべたり、考えたりする。何度も書いてきたことだが、みなそれぞれ生きてきた人生が違い、読んでいるときの環境も違うから、一冊の本、ひとつのコンテンツから、同じものを読み取るということがない。百人の受け手がいれば、百通りに異なるからこそ、同じ小説や映画について誰かと語り合うのは楽しい。
たとえば、ここに一冊の小説がある。紙に印刷された本として、目の前にある。けれど、その小説から読み取られたものは、ひとりひとりの読者の頭の中にしかない。著者が書いたつもりのものも、読者に読み取られなければ、その読者にとっては、書かれていないものと変わらない。「書かれたもの」と「読まれたもの」とは違う。
読み終わった後に、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に筋をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものも含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。
保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社、二〇〇三)一四〇頁
保坂氏が「読んでいる時間の中にしかない」と呼んでいる、それこそが小説であるとするならば、本とは「書かれたもの」だけではなく、「読まれたもの」を含むのだということになる。小説に限らず、すべてのコンテンツが、誰かの考え方や感じ方を、少しだけ変える可能性をもっている。その変化は、特定のコンテンツをきっかけとしてはいるが、実際はそこから「読まれたもの」によっておこる。むしろ「読まれたもの」だけが本である、という言い方さえする人がいても不思議ではない。
「書かれたもの」がコンテンツであるとするなら、「読まれたもの」とはコミュニケーションである。そのコミュニケーションはまず、「書かれたもの」を起点として、つくり手と受け手との間で起こる。続いて、同じ「書かれたもの」の受け手同士の間で起こる。言い換えれば、一冊の本とは、何らかのコンテンツと、それを起点としたすべてのコミュニケーションの総和である。
インターネット以降、コンテンツが急激に増えたのと同時に、コミュニケーションはさらに爆発的に増え、より可視化されやすくなった。SNSから居酒屋での会話まで、あらゆるコミュニケーションの場、それ自体がときに、つまらない本よりもよほど、有意義に「読む」ことができる。そのように考えると、コンテンツよりもコミュニケーションのほうが多様化し、逆説的に「本らしく」なっているのが現在である、とさえ言えるかもしれない。
※『これからの本屋読本』(NHK出版)P74-76より転載
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