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紙の本の扱い方は変わっていく

第3章 本屋になるとはどういうことか (7)

 もうひとつ、「本屋になりたい」と考える多くの人がイメージするのは、紙の本を商品として扱う姿だろう。考えようによっては、電子書籍やウェブサイトを扱う人をはじめ、あらゆる人が広義の「本屋」になり得る。けれど少なくとも自分の講座に来る人を見ていると、紙の本を扱いたいと考える人が圧倒的に多い。

 いま紙の本を扱っていると、「電子書籍についてどう思っているのですか」とよく聞かれる。みな過渡期にあることを感じているから、紙の本を扱う人がどう考えているのかが気になるのだろう。いろいろ議論をすると、「少なくとも、紙の本がなくなることはない」という結論に落ち着きやすい。

パピルスは紙が導入されてからも地中海沿岸を中心とする地域で何世紀も使われつづけた。羊皮紙はいまだに使われている。ガスや電気ストーブが発明されても暖炉がなくなることはなかった。印刷ができるようになっても人はペンで書くことをやめなかった。テレビはラジオを駆逐しなかった。映画は劇場をなくせなかった。ホームビデオも映画館をなくせなかった。が、今挙げたものはどれも誤った予測をたてられた。電卓がそろばんの使用を終わらせることさえできなかったのに。(……)新たなテクノロジーは古いテクノロジーを排除するというより選択肢を増やすのだ。コンピュータはまちがいなく紙の役割を変えるだろうが、紙が消えることはけっしてない。

マーク・カーランスキー『紙の世界史』(徳間書店、二〇一六)一一頁

 たしかに、おそらく、紙の本はなくならない。けれど、なくならないからといって、立ち位置が変わらないわけではない。いままで紙で楽しんでいたものを、デジタルディスプレイで楽しむようになる人の割合はいまも増えていて、これからもしばらく増え続ける。だから、紙の本をつくり、売るというビジネスが、いまの規模で続いていくかというと、残念ながらそうはいかない。

 テクノロジーの歴史はまた、ラダイト(=テクノロジー嫌いな人々)はかならず負けるということを教えてくれる。初代のラダイトは十八世紀から十九世紀初頭のイギリスの熟練工だった。彼らは低賃金で働く未熟な労働者が動かす機械に自分たちの腕が負けることに抗議した。(……)
 カール・マルクスは主著『資本論』のなかで、ラダイトの失敗は社会ではなく機械に反対したからだ、としている。マルクスはこう述べた。「ラダイトの過ちは機械化と資本による雇用とを区別できず、攻撃の方向を誤ったことだ。攻撃するべきは製造機械ではなく、それらの使用形態だった」
 要はテクノロジーそのものを糾弾しても無益だということだ。むしろ、テクノロジーが生みだされた目的に適うように社会の仕組みを変えなければならない。

マーク・カーランスキー『紙の世界史』(徳間書店、二〇一六)一一~一二頁

 「紙のほうが優れている」「紙の本の文化を失くすな」と真っ向から叫ぶ、かつての「ラダイト」のような人々は、いまも残念ながら多い。けれどテクノロジーの流れには抗えないということは歴史が証明している。デジタルの本を愛せる人、その最先端に身を置ける人であれば、未知なる可能性が広がっているそちらの道に、果敢に進んでいくほうが面白いかもしれない。

 一方、やはり紙の本を扱っていきたい場合でも、テクノロジーの現在を知らずにいることは得策ではない。コンテンツはもちろん、紙の本にまつわるコミュニケーションさえも、すでに大部分がインターネットで流通している。SNSでの評判を気にしたことがない著者や編集者はいないだろう。その流れはさらに加速する。もちろん、あえて情報発信を限定し、小さなコミュニティを相手に、できるだけテクノロジーと無縁であることを強みとする形もあり得るかもしれない。けれどその前提となるテクノロジーを知っていないと、やがて距離の取り方そのものがわからなくなってしまうはずだ。

 とはいえデジタルの本は可能性が大きすぎて、巨大なプレイヤーがしのぎを削っているし、リアルな場所と関係がないから、世界中に強い競合相手がたくさんいる。一方、紙の本の世界ではシフトチェンジが難しく、巨大なプレイヤーがどんどん弱っている。現行の出版流通の仕組みへの依存度が高い大型書店や取次など、その事業規模が大きく歴史が長いほど、変化には時間がかかり、痛みも伴う。逆に小さくて新しくはじめるところであればあるほど、簡単に時代と寄り添い、合った形ではじめることができる。変化が大きな時代だからこそ、紙の本を扱う小さな本屋をはじめるには、いまは面白いタイミングだといえる。

※『これからの本屋読本』(NHK出版)P104-P107より転載


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