途方もなさの構造
第1章 本屋のたのしみ (2)
なぜ、何時間いても飽きないのだろうか。本が面白いからだ、と言ってしまえばそれまでだが、そこには本屋に来る客が、本という物体の構造を理解しているという前提がある。その前提が、空間としての本屋の途方もなさをつくっている。
一冊一冊、それぞれの本には、著者が何年もかけて取り組んだなにかが、紙に印刷され、綴じられ、ページというかたちで内包されている。誰かの人生観さえ変えてしまうような物語や、何年もひとつの対象に密着して得られた知識や情報、何十年もひとつのテーマを追い求めた研究者がたどり着いた成果などが詰め込まれている。開けば、それをいつでも再生することができる。そして、それぞれの魅力が、背表紙の文字列や、表紙のビジュアル、全体の造本などに、パッケージとして凝縮されている。そのことを、本屋の客はみな知っている。
そして、それぞれの本に入っているなにかを、端的に示す役割をもっているのが、背表紙と表紙である。おもに背表紙を、もっとも効率よく、美しく見せて並べるために設計されているのが、本棚という什器だ。一方、おもに表紙を美しく見せるためにある什器は、平台と呼ばれている。そして、この本棚と平台というふたつの什器を、もっとも効率よく並べるために設計されるのが、本屋の空間だ。
本を最小の構造体として、そのひとつひとつに物語や知識や情報があり、それらが背表紙や表紙に凝縮され、それぞれ本棚と平台を支えに、もっとも効率的に積み上げられている。そのような構造になっていることが直感的にわかれば、その空間の途方もなさは、子どもでも理解できる。これは一生かかっても、けっして読み切れないだろうと。よほど小さな本屋であっても、一冊一冊の先にひろがる世界をすべて知り尽くすのは、個人の限界を超えている。原理的にそもそも途方もないようにできていて、だから飽きない。
※『これからの本屋読本』(NHK出版)P14-15 を転載