参考書マニアだった話
第9章 ぼくはこうして本屋になった(1)
それでは自分の場合はどうか。どのように「本屋」としての自分がはじまり、これまで何をしてきて、これから何をするのか。自分語りとなってしまうことは恐縮だが、ひとつの実例として、最後に恥をしのんで二〇一八年現在までの話を書いておきたい。
小学生の頃と違って、中学に上がってからは電車で通学していたので、少しお金を持たされていた記憶がある。埼京線で、池袋駅。山手線に乗り換えて、新大久保駅。私立の中高一貫の男子校に六年間通った。ロッテのガム工場の前を、ブルーベリー味の匂いを嗅ぎながら歩くルートが、駅から学校までの正式な通学路だった。けれど、少し遠回りになる別のルートを歩くと、当時たしか新刊書店が一軒、古本屋が二軒あった。そこで少しずつ、自分で本を買うようになった。ほとんどは古本の文庫本で小説やエッセイ、中でも村上春樹がきっかけでヴォネガットやオースター、サリンジャーやカーヴァーなどが好きになった。間食のためのお金を貯めて、たまに新刊も買う。読み切れなくても、少しずつ買うのが楽しかった。
受験生になってからは、多くの同級生がいわゆる三大予備校に通う中、ぼくは学校から一番近くの、高田馬場にある中堅の予備校に入った。講義を受けるよりも、自習をするのが好きだった。学習参考書や問題集の代金であればいくらでも親に請求できるのをいいことに、最寄りの本屋であった、「芳林堂書店高田馬場店」に入り浸った。
学校が終わって勉強を始めるまで少しの時間があると、そこで参考書や問題集を物色する。徐々に、自分ではこなしきれない量になっていった。通っているうちに、新刊が出ればその変化に気づくほどに、棚の商品を記憶していく。それぞれの特徴に詳しくなり、同級生の勉強の悩みを聞くと、それに合う参考書や問題集を勧めるほどになった。これは後から友人に指摘されて気づいたことなのだが、いま思えばこの頃に、ぼくは少し「本屋」に目覚めたといえるかもしれない。誰かのために本を選ぶのは楽しかった。大学に入ったのは一九九九年。七月になっても人類は滅亡しなかった。
※『これからの本屋読本』P296-297より転載
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