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小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 38 原本

陸奥介の一家は、主の手腕が国内で肯定的に受け入れられ出したのと連動するかのごとくに、平穏無事の度合いを高めて行った。

それは、家族や家人達が京から移り住んだ当初のしっちゃかめっちゃかぶりを乗り越えて、当地の風習、及び、気候に対して何となく対応が利くと思い出した矢先、奥方の出産を経て、彼らに着実に実感され行くのであった。

また、それとともに、子供達がいずれもすくすくと成長して行く様は、邸内のどの者にも“明るい希望がいや増す”と感じられたのであった。

嫡男は、父親手ずからの薫陶の下(もと)、良家の子弟としての学業を堅実に踏んでいたし、現地の子供達と遊んでいる内に、身体的にも京(みやこ)育ちの者にややありがちな蒲柳(ほりゅう)の質(たち)を免れ得ていた。

何よりも、その性情が温良、かつ、裏表のないところであったので、誰もがこの者を憎く思うことなく、彼に対して一目置き、下にも置かず接していたのは、彼最大の長所を表していたのであった。

そして、姫は、母親からたった一人の女の子として特に目を掛けられつつ、長女ということで、甘やかされることもなくといったふうに育てられていたのであった。

当然のことながら、ゆくゆくの嫁入りを考え合わされつつ、藤原一門の姫君として恥ずかしくないような育てられて方もされていた。

すなわち手習い、和歌、琴などといったものについてのことである。

陸奥介は女が学問することにつき拒否感をさして持ってはいなかった。

その一方で、あまりにその道で際立つのは女子にとり幸せを逃すであろうとの通説にも少しく染まっていた。

あまつさえ、“娘を宮中に女房として送り込み、そこで評判になるようであればよい“などと、今どき使い古された方策に関心がなかった故に、彼女に対し真名の道を伝授しようとは思わなかった。

ただ、この家はいつも皆で過ごすことが往々であり、兄が父親から学問を授けられているところに自由に出入りしていたためか、姫は同年代の男子などより仰山(ぎょうさん)漢字を知っていたし、古賢の道の“すじ”をも朧げに弁(わきま)え出し始めていたのであった。

けれども、彼女が意識的にその道を自らに見出だそうとし始めたのはまだ先のことであった。

陸奥介は、奥方同様“この娘子(むすめご)がぜひとも良き夫に巡り合えかし”と常に思い巡らしては、いつ帰れるかも知れない京(みやこ)の貴族の様子を勝手に想像するのであった。

それは、取りも直さず、遠隔の地であるからこそ“憤(いきどお)る”こともなくやりおおせる仕儀なのであった…。

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一(はじめ)
経世済民。😑