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小説 ふじはらの物語り Ⅱ 《陸奥》 30 原本
「ああ、何と言うか、それでも、私は、かつての哀れな私自身のことを全く否定する気にはなれません。愛(いと)しいくらいなのであります。どうしてでしょうか。もし、あのような悲惨で暗澹(あんたん)たる時代を経なければ、私の慢心は全く以て取り付く島に事欠いて、折角私のためにこの憂き世に現れているような有難い者が備える心の気高さに触れても、それが自分にとっていかほど価値あるものか、自覚など出来なかったでしょうに。
どうか、これを、あなた様方には、自家都合などと受け取られませぬよう、ご信頼申し上げます。」
文室将軍は軽く頷(うなづ)いた。
「私は流されてようございました。
私は、一人の男として、肩肘張らずに一人の女と結ばれました。お互いの心のまっさらな有り様(よう)をさらけ出し合って、相手の喜びや悲しみを己がそれであると感じられる身である私達は、大変に果報極まりないと私は心得ます。
思うに、宮中は生き馬の目を抜くがごとき権術がはびこり、端(はな)から人々は怯(おび)えきって、その挙措はおろか、その思考において、すでに自らを偽(いつわ)る習いにどっぷりと我を忘れるくらい耽溺しております。
あれらの者達は、“いつ自分がそこから弾かれるのか”をばかり気に掛けて、真っ直ぐに相手の目を見ることを知らずに育ち、そして、死んで行きます。
哀れむべきではないでしょうか。
私は、出来ることなら、今の自分の心境を多少なりとも彼らに移してやりたい心地がするものです。」
そう語ったのち、広懐は虚無的に微笑んだ。
「私はまた、あなた様方のように、心の内を温かな優しさで満たすことの出来る本当の猛者とお知り合いになれたことで、当地における生活を、私の生涯で最良ものとも致します。
どうか、そのご厚情を私亡き後の哀れな親子にもお注ぎ下さいますよう、伏してお願い申し上げる次第でございます。」
広懐は、死せる前の最後の体力をこれに傾注しようとするかのごとくに、ゆっくりと上体を起こしかけたが、文室将軍ともう一人は、優しくこれを制した。
その際、文室将軍は広懐が見た感じ以上に衰亡しているのを知って焦ったものである。
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