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人前で幸せな話ができない私と、全世界に公開できる友人

充実した日常を惜しげもなく発信する友人

仕事の成果をSNSで定期的に投稿する友人がいる。

彼女は、ウェブ制作会社のクリエイティブ担当だ。作った広告が一般公開されると、それにまつわる苦労話やこだわりポイントが投稿される。

とてつもなく大きな仕事を終えたタイミングでの報告でもなく、高頻度でそのような投稿をする。しかも同業の人たちに向けたアカウントではなく、学生時代から社会人までで知り合った友人達をフォローするアカウントでやるのだ。

すぐに、私はこう考えた。「そんなにアピールしたいんだ、実は自己顕示欲が強めなのだな」と。

成果を「ご報告」としてSNSに載せるのは、意識の高い界隈でよく行われている行為であることは知っている。ただ、私の近い友人にはそういうタイプの人はいなかった。彼女も、そのような界隈の人間ではない。

一時期よく聞いた、SNSでキラキラした日常を上げまくる「マウンティング」系人間。それなのだろうかと考えた。

最初はもの珍しく見ていた彼女のSNSも、だんだん見ているのが苦しくなってきた。仕事の成果だけでなく、趣味の創作活動の報告や、勉強で頑張ったことを延々と投稿するのだ。「そんなに人生がうまくいっていることを発信して、何がしたいんだろう?」と思った。

と、同時にどんどん周りに自分をアピールできる彼女に比べて、私はなぜこんなにも発信できないのだろうと落ち込んだ。私だって日々頑張っているはずなのに。

彼女はかなり親しい友人なのに、こんなに黒い気持ちを抱く自分が心底ひねくれているように思えた。

発信できない私の心の内

彼女を理解するために、いろいろ考えた。たとえ私が同じ成果を残したとして、彼女のような投稿を高頻度でするだろうか?いや、しないだろう。

私は普段、考えすぎて幸せであることを人に言えない。自分の幸せな話をすることは、実は相手に苦しみを与える可能性も孕んでいると思うからだ。

例えば、私が結婚するとしよう。婚活を長年頑張っている人からすると、自身の婚活がうまくいっていないことに対して苦しみを抱えるのではないかと思うのだ。

まさに私自身、友人のハッピーストーリーを聞くことがが心底しんどかった時がある。だから、あまり自身の幸せなストーリーを人に言えない。

彼女はなぜこんな発信をするのか?

それなのに彼女は、平気で幸せであることを載せる。

では、彼女は普段どんな人なのか。
非常に純粋で、まっすぐで、素敵な人だ。私がコロナになれば真っ先に心配してくれる。私が誰かから誉められていたら、自分のことのように喜んでくれる。

そう、自己顕示欲にまみれた人間とは程遠いのだ。周りでも彼女のことを悪く言う人を見たことがない。かく言う私も彼女のことが好きだ。

つまり彼女は、互いの成果を見せられたときに僻む世界線にはいないのだ。
彼女のSNSで流される内容は、「アピール」や「マウント」ではなくただの「発信」。彼女の世界では、皆頑張っていることを純粋な気持ちで発信しあうのだろう。そして、互いを讃えあうのだろう。

私の知っている世界では、そんな人がいることが信じられなかった。分かり合えない人種なのである。

今まで「分かり合えなさ」は、主に上司や親世代といった別の世代に対して感じていたものだ。同世代だったとしても、異性に対して感じるくらいだった。
同世代、同性の友人で、ここまで感性が異なることがあっただろうか。

考えすぎる自分が嫌になる。自分の成果や幸福であることを純粋に披露できたらどれだけ楽だろうか。
いや、彼女のように発信したっていいのだ。その世界線を知ったのだから。しかし、だからといってそうしようとも思わない。

あくまで気質の問題なのだと気づいた。単純にエネルギーの出る方向性が外交的か、内向的か、という違いなのだ。現に、私は発信してないからといって、何もしていないわけではない。そこで比べても意味がないし、そうなろうとするものでもないのだ。

自分と同じ目線で考えていても理解できないのは当たり前なんだなと、異文化交流をしたような感覚になった。そして、なんとなく自分が救われたような気がした。

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