文体の舵をとる─ 『文体の舵をとれ』第七章②
●はじめに
●問題
● ①取材・報道風の声(三人称限定視点)
琵琶湖に巨大鮫が現れたのは、丁度800年振りの出来事であった。その史実は鎌倉時代に記された『琵琶湖畔異変記』に認められるのみだが、青春をボート競技に捧げ続けた彼らのほとんどは、そのような歴史を知る由もなかった。地方局の一クルーに過ぎない木島も同様だ。
ダブルスカル部門の最中、事件は突然起こった。
最初の犠牲者は、先頭を独走していた一団だった。中継ヘリから目視できるほどに巨大な背びれが一瞬見えた途端、突然それは姿を現し、船頭の下山に襲い掛かった。船体は大きく姿勢を崩し転覆。足場を失い落下した相方の守川も、水面に顔を出した途端、無数の牙に襲われた。ありえない。木島は我が目を疑った。
一艘、また一艘と異変に気付き、ボートは方々へと散らばっていった。無慈悲にも遅い者から餌食となっていく。普段は静寂に包まれている琵琶湖は地獄の様相を呈していた。試合にあるまじき惨劇の最中、木島は目を背けずカメラを回し続けた。それこそが己の使命。そう自分に言い聞かせながら。
その最中、一艘のボートだけが異なる動きを見せていた。針路を変え、地獄の中心地へと進む二人の選手──槙野と永田に、木島は焦点を合わせた。顎を全開にして向かってくる鮫に対し、彼らが減速する様子はみられなかった。猛烈に回転する四本のオールが車輪のような軌道を描く。非常事態の中とは思えない優雅な動きに、木島は息を呑んだ。
牙を向いた鮫の大口に、船頭の槙野は二本のオールを突き立てた。我が目を疑う暇もなく、オールが上下の顎を抉り、どす黒い血が噴き出した。レースの破壊者は、あっさりと湖底へと沈んでいった。
● ②当事者の視点(三人称限定視点)
槙野の集中力が途切れるのも無理はなかった。
先頭をキープしていた下山が、目の前で息絶えたのだから。しかも、犯人は大きな魚。槇野の目には鮫にしか見えなかったが、琵琶湖に鮫など居る訳がない──いや、いる!確かに、眼前に!
ボートから投げ出された下山のペア──守川が水面に浮き上がった。助けを求める声を発していたのだろう。だが、声は届くことなく、守川は鮫の餌食となった。飛び散った血飛沫は、即座に湖へと溶けていった。
後続を走っていた槙野のライバル達は、一目散に散り散りになった。皆が我先に逃げようとしていた。逃げ遅れた者から餌食となる。速さは命に直結する。敗者たちは次々に沈んでいく。
息絶えるライバル達。最早レースは続行不可能。
槇野は焦った。そして、怒った。
水中で鮫に人間が敵うだろうか?無理だ、と大抵の人は考えるだろう。だが、彼らにその理性的な思考は残されていなかった。
覚悟を決めるしかない。槙野は相棒の永田にサインを送る。
「旋回」。
永田は顔を顰めながら、巧みな方向転換で、船を鮫の正面に位置取らせた。いつだって自分の無茶に付き合う永田に、槙野は心の中で感謝の念を送った。
鮫が迫ってくる。肉体の限界を超える猛スピードで漕ぎ、鮫に向かう。獲物を前にして、鮫は大口を開けて飛び上がった。
この瞬間を待っていた。槙野は雄叫びを上げ、握った二本のオールを顎に突き刺した。一本は上顎、もう一本は下顎。超人的な力が鮫の口を穿ち、巨躯は悶えながら沈んでいった。
●振り返り
「第七章」そのものに対する振り返りは前回行ったため、今回は特になし。強いて言えば……これらの問題に取り組んでから小説を読む際、視点を過剰に気にするようになってしまった気がする。
そして、今更ながらに思う。三人称は難しい……!惰性で書くと絶対にこんがらがる。強く意識しないとまずい。
<つづく>