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上田岳弘×藤野可織×小山田浩子/司会・川島隆:シンポジウム:カフカを読みながら、書き続けるということ——「作家が語るカフカ」 (『文學界2024年2月号』

☆mediopos3345  2024.1.14

2023年はカフカ生誕140年
2024年は没後100年にあたるということから
『文學界2024年2月号』で
「これからのカフカ」の特集が組まれ
「作家が語るカフカ」ということで
上田岳弘・藤野可織・小山田浩子(司会・川島隆)による
シンポジウムの記録が掲載されている

カフカはいまだ話題のようだ
最近では2019年に没後百年を目前に
チューリッヒの金庫に保管されていた160点余の素描が
実物大で収録されたものも公刊されている(邦訳はこの10月)
これまで未知だった「画家カフカ」が姿を現したのである
(mediopos3024(2023.2.27)でとりあげた
『MONKEY vol. 29』でも紹介している)

没後100年になってもまた新たに発見され
読み続けられているカフカ
そのカフカ受容の現在のワンシーンとしての
「作家が語るカフカ」を導きとしてカフカの魅力
あるいはそのテクストが喚起するものについて・・・

「何がカフカ的」なのか

上田岳弘は「カフカの作品の特性は、
あきらめているようでいて、
一応目の前のことに対応しようとすること」を

藤野可織は
カフカの作品はよく「不条理」だといわれるが
「その不条理の構造を理解しようとしたり
コントロールしようとしたりする」ことを

そして小山田浩子は
「目先の一歩一歩だけをひたすら考えて、
細かく書きたいように書いていくスタンス」を

カフカ的だととらえている

印象に残ったのは藤野氏が挙げている
カフカが役所の仕事で作成していた「公文書選」で

「カフカが勤め先でしていた仕事と彼の小説とは、
すでにある不条理に対しこつこつと作業する
という意味では全然乖離がないんじゃないかな」と
感じたという

カフカの作品世界は「不条理」さを
表現しているといわれたりもするが
上田氏の語っているように

「カフカ的にみると、
現実世界自体が実は不条理をはらんでいる。
それはカフカの目線から見てもそうなのではないか。
カフカはあえて不条理な作品を書こうとしたというよりは、
現実と同じレベルの不条理さを
表現しているだけなんじゃない」か

カフカが没後100年になった現在も
受容され批評され議論されているのも
まさにいま目の前に展開している現実そのものが
私たちにとって「不条理」そのものだからだろう

現代人にとってのリアリティは
その不条理な現実を生きているということであり
現代において書かれている作品の多くもなにがしか
そうした不条理さをリアリティとして
描かざるをえないところがある

藤野氏の語るように
「カフカの分からなさというのは、
実はすごく分かる分からなさ」にほかならない

ちなみにカフカの「公文書選」は
英社文庫ヘリテージシリーズの
『ポケットマスターピース01 カフカ』に収録されているが
そのぶ厚い一冊のなかから
掌編「こま」を引用紹介することにした

この物語は
回転するこまを手でつかむことが
「普遍的なものを認識する」道であると信じる「哲学者」と
無邪気にこまを回す子供たちの姿とを対比的に描きながら
認識の不可能性というテーマを表現したものだが

これはアウグスティヌスの
「尋ねられないとき私は時間について知っているが
尋ねられて答えようとすると知らない」
という時間についての問いと似ている

子供たちが無邪気にこまを回すとき
そこには普遍的なものが現象しているが
それを手でつかもうとすると認識できなくなる

カフカにとって「書く」ということ
その可能性と不可能性もそれに似ているかもしれない

■上田岳弘×藤野可織×小山田浩子 司会 川島隆
 シンポジウム:カフカを読みながら、書き続けるということ
 ————「作家が語るカフカ」
 (『文學界2024年2月号』・特集 没後100年、これからのカフカ)
■カフカ(多和田葉子=編/編集協力=川島隆)『カフカ』
 (集英社文庫ヘリテージシリーズ 2015/10)

(「シンポジウム:カフカを読みながら、書き続けるということ」より)

「川島/2023年はフランツ・カフカの生誕140年、そして2024年は没後100年のお年です。そこで今回は上田岳弘さん、藤野可織さん、小山田浩子さんのお三方をお招きして、フランツ・カフカとその先品から受けた影響や、自身のカフカ論について語っていただきます。」

「川島/「カフカ的」という言葉はちょっと曲者で、非現実的なものを見ると安易に「カフカ的」と言ってしまう風潮があるのですが、皆さんはいったい何がカフカ的だと思われますか?

 上田/カフカ的という言葉があること自体、カフカが偉大な作家であることの証ですよね。カフカの作品の特性は、あきらめているようでいて、一応目の前のことに対応しようとすることでしょう。不条理なことがあっても、「じゃあこうしようかな」と対応しようとする。対応するにはいったん目の前で起こったことを受け入れなきゃいけない。その受け入れる感触が、僕としてはカフカ的だなと。

 藤野/カフカ的といえばよく「不条理」だと言われるのでそうなのかなと思ってきたのですが、今回いろいろ読んで新たに思ったのは、その不条理の構造を理解しようとしたりコントロールしようとしたりするのがカフカ的なのかなと。把握しきれないくらい大きな機械をいろんな角度から調べてみたり、そこから取れちゃった部品を拾い集めているみたいに感じました。小説ではないんですけど、集英社文庫ヘリテージシリーズの『ポケットマスターピース01 カフカ』にカフカが役所の仕事で作成していた「公文書選」が入っていて、これが本当に面白かったんです。木材を加工する機械や採石場の安全性についてすごく細かく検証を重ねている、ずさんだったり悪質だったりする労働の現状を必死で改善しようとしていることが伝わってきます。それは情性や権力者の利益のために特に言及されなくなってしまっているシステムを洗い出す行為です。小説の方ではわりと好感が持てない人物だったりすることもある主人公がひたすら自分の身に降りかかった厄介ごとに始末をつけるためにがんばっているだけであることが多いですが、カフカが勤め先でしていた仕事と彼の小説とは、すでにある不条理に対しこつこつと作業するという意味では全然乖離がないんじゃないかなと感じました。

 小山田/(・・・)目先の一歩一歩だけをひたすら考えて、細かく書きたいように書いていくスタンスが、カフカの一番カフカなところなんじゃないかなと思いました。

 川島/まさにカフカという作家はそういう書き方をしていたと思います。そこが彼が長いものをめったに書けなかった理由で、『変身』ですら書いているうちに空中分解しそうになりながら、ギリギリ抑えているようなところがありますね。」

 *****

「上田/カフカ的にみると、現実世界自体が実は不条理をはらんでいる。それはカフカの目線から見てもそうなのではないか。カフカはあえて不条理な作品を書こうとしたというよりは、現実と同じレベルの不条理さを表現しているだけなんじゃないでしょうか。現実社会で常識とされていることが10年前、20年前とはどんどん変わっている感覚を抱く人は多いと思うんですけど、そもそもこの世の理って別段根拠があるわけではない。しかし我々はそういったものを当たり前のものとしていったん受け入れたうえで対応していく。変化の激しさが現実世界の不条理さを際立たせ、現実は現実で不条理に見えるし、今書くべきものを追いかけるとある種の作品も不条理になってしまうというのが、実は現代のリアリティなのかなと思います。それを象徴するような作品を僕はずっと書きたいと思ってきました。」

 *****

「藤野/カフカの分からなさというのは、実はすごく分かる分からなさなんですよね。だからかるかはこれほどまでに読まれているんだと思います。(・・・)

 川島/カフカの文学って、分からないとよく言われるんですけれども、基本的には従来の文学の文法を押さえているんですよね。そのうえで引き算をしている。カフカのように書くということの本質は、何を抜いたらまだ文学として成立しているかというところにあるのではないか。そういうレベルの思考実験をカフカはやっていて、今日でもそんなフィルターを潜り抜けたものが新たなカフカ的なものになるのかなと思いました。」

(『カフカ』〜カフカ「こま」より)

「ある哲学者が、子供たちが遊んでいるあたりをいつもうろついていた。こまを持っている少年を見かけると、さっそく彼は待ちかまわた。こまが回転しだすと、哲学者はあとを追いかけて捉まえようとした。子供たちが騒ぎだし、自分たちの玩具に近づけまいとしても、彼は気にしなかった。まだ回転しているうちのこまを捉まえることができると、彼は幸せになるのだが、それもほんの一瞬だけのことで。すぐにこまを地面に投げ出して、立ち去ってしまうのだった。すなわち、彼はこう信じていた。たとえば回転するこまのように些細なものであっても、それを認識することは、普遍的なものを認識するこよに足りるのだ、と。それゆえ彼は大きな問題を扱うことはなかった。それは彼には不経済のように思われたからだった。きわめて些細なものであろうとも、それを真に認識したならば、すべてを認識したことになる。だからこそ、彼は回転するこまを扱うのであった。こまを回そうと準備している姿を見ると、きまって彼は、今度は成功するだおろうという希望を懐くのであり、こまが回転し、息を切らせながらそのあとを追っていくと、希望は確信へと変わった。だが、愚にもつかない木切れを手につかむと、気分が悪くなった。これまで聞こえてこなかった子供たちの騒ぎ立てる声が、いまや急に耳に入ってくるようになり、彼を追い立てた。不器用な鞭で叩かれたこまのように、彼はよろめいた。(竹峰義和=訳)」

(『カフカ』〜川島隆「作品解題/『こま』Der Kreisel(1920)」より)

「この物語では、回転するこまを手でつかむことが「普遍的なものを認識する」道であると信じる「哲学者」の姿を通して、認識の不可能性という哲学的なテーマが扱われている。こまが回転しているうちにつかむことに成功すると「哲学者」は幸福を味わうが、こまはつかんでしまうと回転を止めるため、幸福は一瞬しか持続しない。こうして、生きた現実にたどり着くことができない「哲学者」と、無邪気にこまを回す子供たちの姿とが対比的に描かれる。

 このテーマ自体はさほど珍しいものではないが、視点の揺らぎが奇妙な読後感を残す作品である。」

(『カフカ』〜カフカ 公文書選「[一九〇九年次報告書より]木材加工機械の事故防止策」より)

「昨年の報告書ですでに採り上げた、木材切削加工用のかんな盤における丸胴の安全開店軸の導入、ないし角胴シャフトに金属製の開閉蓋を取り付ける件につき、保険局は以下の通りご報告する。」

(『カフカ』〜カフカ 公文書選「[一九一四年次報告書より]採石業における事故防止」より)

「防災技術的な事業のために目下いかなる手段を行使でき、この事業に関して法的にいかなる可能性と正当性があるかにより、保険局の活動は一定の方向に向かうことを余儀なくされた。ドイツ帝国における同種の組織のように事故防止の全領域をカバーすることはできず、もっぱら社会的・統計的な観点からして緊急性があり、最小の出費で最大の効果が得られる見込みのある分野のみに集中出ざるをえなかったのである。たとえば事故多発により一時的に局の会計を圧迫していた農業機械に安全機構を実装させる件がそうであった。これらの機械の一覧作成と点検は、地方時自体および管区長の支援があれば容易に可能になるはずだが————実際にそのように遂行された。かんな盤にシャフトの導入を進める件も同様であった。この二番目に危険度が高い木材加工機械に関しては、ほぼ完璧な防災対策が存在している。かんな盤の數・種類・装備によって厳密に企業を分類した一覧を作成し、かつ関係官庁の支援を得ることで、旧式の角形シャフトの使用を減らしていくことに保険局は成功した。それは統計を見れば一目瞭然である。」

(『カフカ』〜川島隆「作品解題/公文書選」より)

「カフカは日記や手紙でしばしば自分のサラリーマン生活への忌避感を表明し、文学活動との両立の難しさを嘆いているため。従来、カフカ研究において公文書は可塚文学が生み出される単なる背景、いわばネガとしてのみ扱われ、具体的な内容に関心が向くことは稀であった。しかし近年の研究では、カフカの文学作品と公文書のあいだの文体上・モチーフ上の連続性が指摘されるようになってきている。もう少し踏み込んで言えば、両者の境界線を撤廃し、カフカの公文書を「文学作品」として読む可能性もまた読者の前に開かれている。」

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