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武田砂鉄「誰もわかってくれない—なぜ書くのか 第8回ハウ・ツー」/保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか 連載小説74」 (群像2024年10月号)

☆mediopos3590(2024.9.17)

「群像」で連載されている
武田砂鉄「誰もわかってくれない」
保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか」
その二〇二四年一〇月号の記事をガイドに

(二つの記事は直接関係してはいないが)
「書く」ことと「考える」こと
そしてその背景にたしかにあるにもかかわらず
見えなくさせられている
いってみれば半ば無意識なまでに働いている
「自動化」あるいは「洗脳」ともいえる機構について

まず武田砂鉄「誰もわかってくれない——なぜ書くのか」
第8回は「ハウツー」から・・・

オリンピック中継で
「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架橋だ!」や
「13歳! 真夏の大冒険!」のように
「あらかじめ用意」されているような言葉の不自然さからは
できるだけ遠ざかっていなければならない

「ハウ・ツーではなく、まず考え、次に考え、
さらに考えた先で、その都度動いていくものとして
文章を書」いてはじめて
「書く」ということは成立する

「知っていること、考えていることを書くのではなく、
考えるために書くべきだ」という

すでに準備された言葉や
「知っていること、考えていること」
について書かれた言葉
つまり「ハウ・ツー」に準じた言葉
メディアから発信される言葉やマニュアル本の類いの多くは
ある意味ですでに死んだ思考にほかならないともいえそうだ

続いて保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか」では
気づかないところで働いている「支配の力」から
自由になるための視点について・・・

「政治的正しさ」とも訳される「ポリコレ」は
疑いをもたない善意(「几帳面さ」)の人たちや
「正しさ」とされることを使って
他者を糾弾しようとする人たちの矛ともなり
それが「透明」な「空気」として
相互監視社会の推進力として権力に利用されている

保坂和志は小学生の理科の時間で
滑車に関する問題で
「滑車とロープの重さは含みません」とか
「ゼロとする」とかされることが嫌だったといい

現実に働いているにもかかわらず
「○○○○は考慮に入れなくてよい」
という視点を「透明化」と呼んでいる

「透明化」は「そういうものだ」
「そういうことになっている」「あたりまえだ」
というように無自覚に自動化されてしまっている視点と
深く関係していると思われる

それは学校教育や地域社会からはじまり
あらゆるところで「空気」のように
「同調圧力」として呼吸され
それを受け入れることが「円滑」さをもたらすことから
それが「支配のループ」として働くことになる

上記の二つの記事が示唆しているのは
考えることそして書くことにおいて
知らず働いている(透明な)「力」について
意識的である必要があるということだろう

その「力」は「権威」や「慣習」等として
「外」から与えられるだけではなく
死んだ思考(教育され刷り込まれた知識)として
「内」からみずからを縛るものでもある

考えることそして書くことは
そうしたことを自覚しながら
いまここで生まれてくるものでなければならず
そうすることではじめて生きたものとなることができる

■武田砂鉄「誰もわかってくれない————なぜ書くのか 第8回ハウ・ツー」
■保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか 連載小説74」
 (群像2024年10月号)

**(武田砂鉄「誰もわかってくれない」より)

*「言葉をあらかじめ用意してはいけない。以前、オリンピック中継でスケートボード選手に対して、「13歳! 真夏の大冒険!」と力強く実況して注目を浴びたアナウンサーが、直近のリンピックでは、恋という名前の選手に対して「金メダルに〝恋〟した14歳!」と実況したようなのだが、そう、こうやって、言葉をあらかじめ用意してはいけないのである。記憶に残る言葉を言ってやろうと前もって周到に準備する。体操選手に対して放たれた「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架橋だ!」あたりから、記憶に残るフレーズをどのタイミングで言い放つか、しかも、それをどうやって演技とぴったり合わせ、いかにも今、興奮のあまり自然と口に出てきたかのように話すから考え抜かれるようになった。どうすれば自然になるかを考え抜く、この不自然さからできるだけ遠ざかっていたい。」

*「ハウ・ツーではなく、まず考え、次に考え、さらに考えた先で、その都度動いていくものとして文章を書く。(・・・)考えることはピクルスの瓶開けに似ている、とある(加藤典洋『言語表現法広講義』)。なぜなら、なかなか開かない瓶を開ける時に、人間は自分が持ちうる最大の力をかける。でも、その渾身の力をかけるのは一瞬で、5分続けたり、20回繰り返したりはしない。ちまり、すぐにこれはダメだと匙を投げる。考えることも同じくらいつらい。それでも何度も考える。そして、知っていること、考えていることを書くのではなく、考えるために書くべきだと。

「書いてみると、どこまで自分がわかっていて、どこからわからないのか、わかる、なぜわかるか。書けなくなるから。あるいは調子に乗って書いていて急に自分が馬鹿に思えてきて、その先を続けられなくなるから」」

*「何回か前に同じような原稿を書いたかもしれないと遡ってみたら。わずか3回前に「自分の考え、自分ならではの文章は、そう簡単に得られるものではない。書き始めて、書き続けて、書き終える。それを繰り返しているうちに、これがそうなのかもしれない、くらいのものがようやく出てくる。でも、それを疑わなければ、早速、自己模倣ばかりになる」なんて書いていた。今、考えたつもりなのに、ちょっと前にも似たようなことを書いていたらしい。これを「自分がずっと思っていること」とするのか。「考えて、考えて、そうしたらたどり着いたところがおおよそ同じだった」とするのか。どっちなのだろう。

 ただ言えるのは。「13歳! 真夏の大冒険!」をやらないようにしよう、であって。あらかじめ用意しておいた言葉を、相手にそのまま届けて、届いた人を抽出して、自分の言葉が届いたのだ、だからこれでよかったのだと納得し、自分の考えを先に伸ばさないようにするのだけはやめたい。」

**(保坂和志「鉄の胡蝶は歳月は夢は記憶に彫るか 連載小説74」より)

*「日本ではポリコレはSNSと連動した相互監視社会の推進力となり、誰が未成年なのに喫煙したとか誰が誰と不倫したとか、弱者たたきというよりこれはもう軍隊の中のビンタだ、しかし、新宿や銀座やたくさん観光客が集まるところに行くと、日本社会の外から来た女性たちは自分を抑えてない、あの人たちのまちまちバラバラぶりを見ると日本の女性たちがどれだけ自分を押し殺しているかと思う。

 ポリコレを盾にして、いや盾でなくて矛だ、ポリコレを矛にして糾弾する人は自分を押し殺している人か、それを黙認している人か、その誰でもないだろう、文学というのあ読んで何かを感じたりする行為とその時間のことだが、そういう現実に起こる行為や時間と関わりなく文学の中身はカラッポでかまわず、その文学を何かと価値付けたり利用したりする人がいる、たとえば「○○○文化講演会」を開くときに文学と関わりのある、文学者と言える人を呼べると都合がいい、ベストセラー小説はそういう文学の代表だ、そこには文学は何もない、ポリコレもほとんどそんな風に社会を覆っている。」

*「〈万物の黎明〉が言っている、アドニスの庭つまり気まぐれな農業、遊戯農業は、もし仮りに〈万物の黎明〉が描く〈サピエンス全史〉的なメガ人類史を否定する遠い人類の歴史がそんなものはなかった空想の産物だったとしても、歴史をつくってきたという間違った自負を持つ男たちが女こどものやることと軽視する小さな植物栽培、子どもっぽい動物の可愛がりに着目することは直近何十年か何百年か、あるいは何千年かを支配する人類の価値観や優先順位を覆すために必要だ、いままさに遊びが子どもたちがその場ではじめたり、前の子どもたちから受け継いだりした遊びらしい遊びが経済や計画性の中に飲み込まれようとしている、

「ぼくが時間に遅れると、時間に厳しい人は「おまえの10分の遅刻がどれだけみんなにメイワクかけてるか考えろ」と言うけれど、そういうことを言う人もみんなにメイワクかけているんだということに気がついてほしい。」
 といった、渡辺和博の感受性というか先見の明というか、私は〈万物の黎明〉を通過して、この指摘なますます輝かしく見えてきた、時間に正確であること、文書の書き方に正確であること、何かの手続きが円滑であること、全体として便利であること、それらはひとつひとつは悪意ではなく善意によることなんだがそれらが社会の全体を覆ったらとても息苦しいことになるどころか、それらは透明化だ、そんな用語はたぶん使われてはいないだろうが円滑であることは透明化だ。」

*「私は小学校の理科で滑車の働きを教わったときに、定滑車は力の向きを変えるだけだが動滑車はロープの片方を固定して動滑車を釣ってこっちでロープを引く、動滑車が下になったU字になるわけだ、すると力は固定したところとこっちの持ち手で二分の一になる、それで、
「図のように一方を固定して、動滑車で60kgの荷物を引き上げるとき、何kgの力が必要でしょう?」
 という問題がテストに出るんだが、その問題には、
「ただし、滑車とロープの重さは含みません」とか「ゼロとする」とかいうただし書きがつく、これが透明化だ、私は小学生の頃からこの、「○○○○の重さは考慮に入れなくてよい」という透明化がそのつど嫌だった、重さだけでなく厚みや強度の問題もある、現実の世界ではそれら、物体が持つ性質の何が計画の足を引っ張るかわからない。

 時間も文章も何かの手続きも物であるから円滑にいっているときは透明で考慮に入れなくていいがトラブると物になっていく、(・・・)。」

*「透明化の話だ、ふだん意識しないで透明になっていたことが物として存在を主張する、動滑車の重さは現実にはゼロでなくロープにもロープとしての重さがある、実際の場面では摩擦とかも考えに入れなければならないだる、そしてそれを動かすのは人間だ、(・・・)。」

「ゼロと考えて計算に入れなくていい動滑車は現実にはないんだという話だ、この社会で有能と認められるために人は作業工程上は透明になる、動滑車であっても自身の重さを考慮に入れなければならないような要因であってはならない、そこでNHKのEテレの100分で名著に取り上げられたジーン・シャープという人の〈独裁体制から民主主義へ〉の中に、たしか「消極的な抵抗」として、仕事をテキパキこなさずに時間をかけて遅らせるというようなことは書いてあって、サボタージュの一番弱気な方法と考えればいいか。」(注:サボタージュ:「ただ怠けるという意味でなく起源として資本家や支配者に対する抵抗の意味があった」)

*「現実にある間違いや良くないものを正そうとして、それを要素に分けて、ひとつひとつに対して反論するとか、それの拠って建つ根拠の向かって反論するとか、それが反論であるかぎり全否定するための反論であっても、否定するためにはその概念をいったんは在ると認めなければならない、そんなものはもともとどこにもなくても概念を出されたら作業上はいったんは在るとしないと否定できない、そこがすでに泥沼にはまる、話がズレていることは承知しているがこれがまた几帳面さの一形態だ、この社会は人々の几帳面さを利用している、もともと向いている几帳面さの方向を捻じ曲げてそれを或る支配の力に変えている。

 いま私はすごく鋭いことを言ったかもしれない、書いたのではなくここは言った、書くとなると人は几帳面になるから書くのでなくて言うのでないとこの世界の支配のループから出られない、

 この社会は人々の几帳面さを利用している、もともと向いている几帳面さの方向を捻じ曲げてそれを支配の力に換えている。」

*「〈万物の黎明〉は、文字を持って歴史を残すようになる以前の、人類の初期の人たちを、
「私たちと知的に対等だと認めよう」
 と言った」

*「この近代社会は何十世代もつづくとはとても思えない、地球に対して人間の社会は、優劣でなく適不適を考えないと続かない、

 それで私は考えるのは文字の問題なのだ、無文字社会に生きる人たちの知性は文字社会に生きる人たちの知性と同等である、ということ、そしてm

 文字を使うことによって核が失われる知や技がある、これは否定しようがないというよりここを無文字社会を考える前提にしなくてはならない」

*「ネットにたったひと言で人を嫌な気持ちにさせる人たちは、

「この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人を常態としれ萎縮させ続けるという統治の技法がある。」

 と酒井隆史さんが〈通天閣〉の欄外に何の気なしに書き留めたという重い一文を社会的に実行する末端としての機能を話している、彼らはネトウヨと言われることも嫌がらないだろうし、このように支配の末端として機能していると言われてもむしろ喜ばしいくらいだろう、権力は社会の内部の同調圧力とか空気とかをずうっと利用してきたわけだが、ネットの嫌な書き込みをする人たちはもっと顕在化している、ということは権力に阿(おもね)る人たちは自分のやっていることを恥と感じなくなった、いやもともと昔からそうだったからもっと正確な言葉で名指すべきかもしれないが、そんなことはやっぱりどうでもいい、彼らのあいてをするのでなく、彼らをスルーする習慣を身につければいいだけのことか、——

 だから、それができないからネットの書き込みに社会が振り回されるというか浸食される、権力がそこを放置してるんだから、権力はネットの書き込みが力を持つ社旗を利用している、傍から見たらひと目でバカが書いた短い文章に影響されてしまうんは、〈書かれたもの=権威〉という図式が刷り込まれているからか、権威とか何も関係なく人はただひたすら自分のことが書かれることに抵抗力がないのか、ともかく、相手はバカで、明白に間違ったことを言っているのだ、相手がどういう者かわかるけで、相手の言葉の力は弱くなる、——」

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