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井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス/東洋哲学のために』/『談』no.131 特集◉「空と無」/河合隼雄『中空構造日本の深層』/斎藤環『イルカと否定神学』

☆mediopos3644(2024.11.10.)

mediopos3637(2024.11.3.)でとりあげた「空と無」

そこでは「無」を「空」との関係において
すべての「有」(存在)はほんらい
「無」から出来する現象であるがゆえに
それを「空性」としてとらえることができると示唆したが

その背景となる井筒俊彦の「東洋哲学」における
「コスモスとアンチコスモス」についてとりあげる

現在「コスモス」という言葉からは
「天体宇宙」がイメージされるようになっているが
井筒俊彦の視点では
「近代宗教学のいわゆる「ヌーメン的空間」に起源をもつ
「有意味論的存在秩序」」としてとらえられている

そしてかつて西欧においては
「コスモス」に対する「カオス」は
「コスモスの圏外に取り残された、まだ意味づけられていない、
まだ秩序づけられていない、存在の領域」
つまり「コスモス成立以前の状態、秩序以前の無秩序」だったが

やがてそれが「コスモスを外側から取り巻き」
否定的・破壊的エネルギーとしての性格を帯びるようになる

井筒俊彦はそれを「アンチコスモス」と呼んでいる

そしてそのとき「コスモス」も
かつての「有意味論的存在秩序」ではなく
むしろ「かえって人間を抑圧する統制機構、権力装置」として
感じられるようになっていった
それに反逆するのが「アンチコスモス」なのである

西洋ではそのように「アンチコスモス」が
「ロゴス中心主義」的存在秩序の解体として
提起されるようになってきているが

「東洋哲学」においては
「伝統的にアンチコスモスの立場」が主流であり
それは「「空」あるいは「無」を
存在空間の原点に据えることによって、
存在の秩序構造を根底から揺るがそう」とするものである

それは荘子の「胡蝶の夢」や大乗仏教がそうであるように
その第一段階において
「我々の経験世界(いわゆる「現実」)の非現実性、
仮象性を剔抉し、それをしばしば「夢」「幻」
という比喩で表現」されている

「我々が日常的に生きる経験世界では、
様々な事物が互いに無数の境界線によって区別されているが、
それらの境界線は人間意識の意味喚起作用が
作り出したものであって、本当は実在しない」というのである

つまり「「有」(存在)は「無」である」という
「東洋哲学特有の自己矛盾的命題」である

しかしその「無」はなにもないということでも
「存在の虚無化」を意味しているのでもなく
「存在解体の極限において現成した「無」を、
さらに進んで、逆に「有」の根基
あるいは始点として考え」ることであり

「もともと、「無」(無分節者)の自己分節的仮現である故に、
ここに生気する現象的「有」のシステムは、
「有」でありながらしかも「無」であるという矛盾的性格をもつ」

そして「東洋思想のコスモスは、
たしかに中心点をもって」はいるものの
「それが「無」であることによって、
「無」中心的→無中心的、である」のだという

井筒俊彦のこうした
「コスモスとアンチコスモス」の視点について
ユング心理学の河合俊雄は
岩波文庫版『コスモスとアンチコスモス』の解説において

ユングがそうとらえているような
実体化された全体の中心としての「自己」を批判した
河合隼雄の「中空構造日本の深層」にふれている

そこでは「日本神話での重要な三つ組みの神の一つが、
アマテラス、スサノオと比してのツクヨミなどのように
無為の存在であるという分析」がなされているが
それはおそらく東洋哲学的なアンチコスモスと
通底していると思われる

されにいえば
「東洋思想のコスモス」が「無中心的」だということは
先日mediopos3624(2024.10.21.)でとりあげた
斎藤環『イルカと否定神学』において
オープンダイアローグが
否定神学としてとらえられたこととも
関係しているのではないだろうか

「否定神学」とは
「神を否定形で語る」ということであり
「「神」に代わって、「無意識」とか「現存在」とか、
定義もできず簡単には語り尽くせないキーワードを代入したもの」
であるのだが

西欧において
「ロゴス中心主義」的存在秩序の解体としてとらえられた
「アンチコスモス」は
東洋においては「無」あるいは「空」として
そこから「有」(存在)が出来してくる
「秩序の縛を解かれた存在秩序」である

そのことから考えれば
『イルカと否定神学』の副題が
「対話ごときでなぜ回復が起こるのか」だったように

オープンダイアローグにおける主ー客を離れた「対話」は
「人間を抑圧する統制機構、権力装置」として働く
「コスモス」によって生じた身心の状態を
「秩序の縛を解かれた存在秩序」としての
アンチコスモスの場である「ダイアローグ」に置くことによって
「回復」へと導くことだといえるのではないだろうか

■井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス/東洋哲学のために』
 (岩波書店 1989/7 岩波文庫 2019/5)
■『談』no.131 特集◉「空と無」(2024/11)
■河合隼雄『中空構造日本の深層』(中公文庫 1999/1)
■斎藤環『イルカと否定神学――対話ごときでなぜ回復が起こるのか』
(医学書院 シリーズ ケアをひらく2024/10)

**(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』
   〜「コスモスとアンチコスモス————東洋哲学の立場から————」より)

*「現代はカオスの時代である。カオスの時代ということは、存在秩序構造としてのコスモスが深刻な危機に直面していることを示唆する。そしてそれがまた、現代文明そのものの危機の真相でもあるのだ。」

「「コスモス」という語は、現今では「天体宇宙」の意味で使われることが多い。しかし、ここでは(・・・)「コスモス」を、意味論的に、より根源的な概念、すなわち近代宗教学のいわゆる「ヌーメン的空間」に起源をもつ「有意味論的存在秩序」(有意味的に秩序づけられた存在空間)として規定し、その上で論述を進めていくことにしたい。」

「コスモスが有意味的存在秩序であるということは、一応次のように説明することはできるであろう。人間は錯綜する意味連関の網を織り出し(「エクリチュール」)、それを自分の存在テクストとして、その中に生存の場を見出す。無数の意味単位(いわゆるものとこと)が、一つの調和ある、簡潔した全体の中に配置され構造的に組み込まれることによって成立する存在秩序、それを「コスモス」と呼ぶのである。コスモスの圏外に取り残された、まだ意味づけられていない、まだ秩序づけられていない、存在の領域は「カオス」である。」

*「「コスモス」と、その対極にある「カオス」とは、ともにギリシア語である。「カオス」は語源的には、パックリ口を開いた状態、空洞、空隙。西洋思想史的には、「カオス」は、その概念発生過程の最初期においてはコスモス成立に先立つ空虚な「場所(コーラー)」(アリストテレス『自然学』の解釈によるヘーシオドスの天地生成の叙述)、あるいは無定型で浮動的な存在の原初のあり方(「創世記」の、神による天地創造譚)、を意味していた。(・・・)注意すべきは、この段階では、カオスは、コスモス成立以前の状態、秩序以前の無秩序、であって、コスモスに敵対する無秩序ではないということである。」

「だが時の経過とともに、カオスは、コスモスを外側から取り巻き、すきあらば侵入してこれを破壊しようとする敵意にみちた力としての性格を帯び始める。このような否定的・破壊的エネルギーに変貌したカオスを、私は特に「アンチコスモス」と呼ぶ」。

 カオスがアンチコスモスに変貌するのに応じて、コスモスの側にはも特徴が現れてくる。もはやコスモスは、人間がそこに安らぎを見出す安全圏ではない。がっしりと確立された存在の秩序構造が、かえって人間を抑圧する統制機構、権力装置、と感じられるようになってくるのだ。コスモス、出口なき秩序空間、自己閉鎖的記号組織。人は、当然、それに反抗し反逆する。その反逆の力がアンチコスモスである。」

*「コスモス・カオスの対立関係は、その後、長く西洋思想の史的展開を支配して今日に至る。わけても、ギリシア悲劇の神、ディオニュソスの精神を体現するニーチェ以来、西洋思想のアンチコスモス的傾向は急速に勢力を増し、実存主義を経て、現在のポスト・モダン哲学に達する。ジャック・デリダの「解体」哲学、ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」理論に代表される現代ヨーロッパの前衛的思想フロントは、明らかにアンチコスモス的である。

 コスモスへの反逆、「ロゴス中心主義」的存在秩序の解体。西洋思想のこのアンチコスモス的動向が提起する存在論的、意識論的問題群にたいして、東洋哲学はどのような対応を示すであろうか。」

*「東洋哲学の主流は、伝統的にアンチコスモスの立場を取ってきた。「空」あるいは「無」を存在空間の原点に据えることによって、存在の秩序構造を根底から揺るがそうと、それはする。この東洋的哲学存在解体は、その第一段階で、我々の経験世界(いわゆる「現実」)の非現実性、仮象性を剔抉し、それをしばしば「夢」「幻」という比喩で表現する。世に有名な「荘周胡蝶の夢」のミュトス。大乗仏教もこれとほとんど同じ思想を同じ比喩で説く。スーフィズムの哲学者イブヌ・ル・アラビーの「存在幻想」論も。またヴェーダンタ哲学のシャンカラの「マーヤー(幻像)」説も。」

「存在が「夢」である、ということは、すべての存在境界線が、元来、人間意識の「迷妄」(意味的分別機能)の所産であって、客観的に実在するものではないことを意味する。我々が日常的に生きる経験世界では、様々な事物が互いに無数の境界線によって区別されているが、それらの境界線は人間意識の意味喚起作用が作り出したものであって、本当は実在しない、という主張である。だが、すべての存在境界線が「意味幻想」であり、表層的「みせかけ」の区別にすぎないとすれば、結局、すべての自律的実体性は消え去って、互いに混入し、荘子のいわゆる「渾沌」に帰一してしまうであろう。そして「渾沌」は最終的には「無」 に帰入してしまうであろう。「有」(存在)は「無」である、という東洋哲学特有の自己矛盾的命題が、ここに成立する。

*「しかし、この命題をめぐる東洋的思惟の決定的に重要な特徴は、存在解体の極限において現成した「無」を、さらに進んで、逆に「有」の根基あるいは始点として考えなおすところにある。老子の「橐籥(たくやく)」(宇宙的ふいご)の比喩が示唆するごとく、「無」は「無」でありきることにおいて、かえって「有」の限りなき充実なのである。そして、およそこのようなことが可能であるのは、このタイプの東洋的思惟が、経験的・現象的「有」の世界を、「無」(すなわち絶対無分節的存在リアリティ)が意味的に分節されることによって生起した存在の次元であると考えるからなのである。」

「ここでは、アンチコスモスは、存在の虚無化(「死」)を意味しない。存在「無」化は、存在世界を虚無の中に突き落としてしまうことでなく、むしろ存在の全体を、主・客の区別をはじめとする一切の意味分節に先立つ未発の状態、すなわち絶対的未分節の根源性において捉えることにほかならない。様々に分節された現象的「多」の世界全体を、根源的未分化、無限定の「一」に引き戻すことである。この意味での「一」が、すなわち、意識と存在のゼロ・ポイントという体験的事態として現成する「無」なのである。」

「もともと、「無」(無分節者)の自己分節的仮現である故に、ここに生気する現象的「有」のシステムは、「有」でありながらしかも「無」であるという矛盾的性格をもつ。換言すれば、コスモスは存在秩序でありながら、しかもその秩序は始めから内的に解体されている。「無」と「有」とのこのパラドキシカルな共立の上に成立する「解体されたコスモス」(秩序の縛を解かれた存在秩序)という観念のうちに、我々はアンチコスモスのきわめて東洋的な表現形態を見る。」

*「従来支配的だった人類文化の一元論的統合主義に代わって、今や多民族・多文化共生のヴィジョンに基づく多元論的文化相対主義の重要性が強調され、多くの人々が、この線にそって、新しい時代の新しい文化パラダイムを模索し始めている。この課題をめぐって、東西の思想伝統の、より緊密な交流、生きたディアレクティーク、の必要性が、至るところで痛感されている。今日のこのような世界文化状況において、内的に解体された「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にする東洋的「無」の哲学には、果たすべき重要な役割がある。」

**(井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』/岩波文庫 河合俊雄「解説」より)

*「この論文(「コスモスとアンチコスモス————東洋哲学の立場から————」)で井筒はさらに、「東洋思想のコスモスは、たしかに中心点をもってはいますが、それが「無」であることによって、「無」中心的→無中心的、である。」と述べている。河合隼雄は西洋のユング心理学を学んでも、その実体化の傾向や中心性の概念に納得できなかった。たとえば、表面の意識における自我と区別された無意識の含むこころ全体の中心としての「自己」が、キリストやマンダラなどで象徴されるという考え方にもあまり納得がいかなかった。そして日本での心理療法の経験や、日本神話での重要な三つ組みの神の一つが、アマテラス、スサノオと比してのツクヨミなどのように無為の存在であるという分析を通して、こころの中心が無であるという「中空構造」に思い至る。これもアンチコスモスの思想を実現させたものと言ってよいであろうし、井筒俊彦が哲学に神話的形象を用いているからこそ、それとつながってくる話なのである。」

**(河合隼雄『中空構造日本の深層』より)

*「最近、わが国の家庭における父性の弱さが、大きい問題点として指摘されることは多くなった。」

*「母性はすべてのものを全体として包み込む機能をもつのに対して、父性は物事を切断し分離してゆく機能をもっている。ヨーロッパにおける父性の優位は、人間が自己を他に事象から分離し、対象化して観察する能力を人間にもたらし、それが自然科学の知へと発展していった。そして自然科学を中核とする西洋近代の特異な文化は、世界を支配することになった。」

*「父性と母性のバランスの上に築かれた日本の文化、社会の構造のモデルを提供するものとして、筆者は、『古事記』神話の構造を考えている。」

「筆者の指摘した日本神話における中空構造は日本人の心性を理解する上において、極めて有効な手がかりを与えてくれると思われるのである。(・・・)この中空の中心は、男性と女性のみでなく、上と下、左と右、左と右、天と地、清と穢、などの多くの対立の中央に存在して、バランスを保っているものなのである。

 このような中空均衡状態は、キリスト教神話のような唯一絶対の男性神を中心とする構造と比較するとき、殊にその差が明らかになるであろう。それは中心に存在する唯一者の権威、あるいは力によってすべてが統合される構造をもっている。統合によらず均衡に頼る日本のモデルでは、中心は必ずしも力をもつことを要せず、うまく中心的な位置を占めることによって、全体のバランスを保つのである。」

*「『古事記』神話において中心を占めるものは、アメノミナカヌシーツクヨミーホスセリ、で示されるように、地位あるいは場所はあるが実体もはたらきもないものである。それは、権威あるもの、権力をもつものによる統合のモデルではなく、力もはたらきももたない中心が相対立する力を適当に均衡せしめているモデルを提供するものである。」

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