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髙山 花子『鳥の歌、テクストの森』

☆mediopos2815  2022.8.2

鳥たちの歌は
「書き、思考し、表現するひとたちの
インスピレーションの源泉となってきた」

大江健三郎
石牟礼道子
泉鏡花
武満徹
メシアン
そしてブランショ

鳥の声に喚起された
作家・音楽家の「テクスト」をめぐり綴られる本書は
それそのものが鳥の歌い語る物語のようでもある

本書はまず大江健三郎の章からはじまる

大江健三郎の作品でとりわけ印象に残っているのは
『洪水はわが魂に及び』(1973)で
知的障害のあるジンが
鳥の鳴き声のテープに反応し
「クロツグミですよ」というように
50種類以上の鳥の鳴き声を聞き分けるところだ

大江健三郎とその作品には
『個人的な体験』(1964年)の主人公が
「鳥バード」であるように
鳥の声が重要な役割を担っている

本書を読むまであまり意識してはいなかったが
たしかに石牟礼道子や泉鏡花の作品のなかでも
その位置づけは異なっているものの
鳥はさまざまに象徴的な役割を演じている

作曲家である武満徹もまた「鳥の音の一回性を、
作曲家であるみずからの聴取システムそのものを
変容させる可能性さえ信じて、真摯に聞きつづけていた」が

鳥の声の作曲家として
もっともよく知られているのはメシアンである

メシアンにとって鳥の声は
彼が「鳥の鳴き声を採集した「鳥類学者」」だったように
イメージでも象徴でも空想的なモチーフでもなく
演奏についても厳格な指定がなされ
その歌声をじっさいに譜面上に再現しようとするものでもあった

そしてブランショである
ブランショは「言葉をもつ人間の限界と、
鳥たちの魅惑的な歌声とを引き比べて、
「鳥たちのように歌声を歌えるだろうか」と問い
「言語を紡ぎ出す人間の声の限界を突き詰め」ながら
「鳥のさりずりの豊かさ、恍惚感、美しさを希求」し

「鳥の歌は、音楽を能動的にも受動的にも享受する人間の想像力を、
その聴取の可能性を、非言語のコミュニケーションのありかたを、
どこまでも刺激しつづけている」ものとしている

じっさいに鳥を観察し
その声をすこしなりとも聴きわけられるようになると
現実の鳥の生態を知り理解を深めることだけではなく
鳥という存在のそしてその姿や歌声によって
わたしたちがどのようにそこから想像力を飛翔させてきたのか
そんな問いへと導かれていくことにもなる

本書のもとになったのは
春秋社のWebマガジン「はるとあき」に
2011年11月から2022年4月まで連載されたもの
鳥とその歌に関する「テクストの森」を
しばし散策するように愉しむことができる

■髙山 花子『鳥の歌、テクストの森』
 (春秋社 2022/7)

(「はじめに」より)

「ときに空を舞い、ときに歌をうたい、ときに色彩ゆたかな羽を纏う鳥。煌きらびやかな孔雀、街中に佇み囀る雀や鴉からす、電線にとまる鳩、海辺に浮かぶ水鳥、木の実を啄みに訪れるやかましい鵯ひよどり、優雅に水上でむくむくとした羽を繕う白鳥、不意に住宅街に現れる派手な見た目をしたインコ、姿は見えずとも朝方に遠くどこからか声が聞こえてくる雉鳩きじばと。

春、夏、秋、冬。季節ごとに鳥たちのいる景色は、移ろってゆく──あるいは、屋外で聞こえてくる鳥たちの奏でる音風景は、その日ごとに、その場ごとに、微細に無限に彩いろどりを変えてゆく。海を渡り繁殖を繰り返す鳥もいれば、大空には決して羽ばたかない鳥もいる。目立たない小さな鳥も枚挙にいとまがないほどにいる。わたしたちには、きっと知らない鳥の数のほうが多いのだろう。

世界中のありとあらゆる土地に生息するこの夥しい種類の鳥たちは、その起源や進化の謎、多彩な形態、さえずりの美しさから、はるかむかしから現在に至るまで、ひとびとの心を惹きつけ、古今東西のさまざまなテクストに、その姿が描かれ、記録されてきた動物であると言えるだろう。この連載では、鳥の「歌」がどのように作家によって聞かれ、音楽家によって追求されてきたのか、いくつかのテーマにもとづいて、テクストの森の中で鳥の声に耳を澄ますように、紐解いてゆきたい。」

(「終章 鳥のように話す声、あるいは非言語/モーリス・ブランショ」より)

「鳥たちの歌は、広い意味で、書き、思考し、表現するひとたちのインスピレーションの源泉となってきた。大江は鳥の声の訪れをひたすら祈るように待機して、そのさえずりに耳を傾けていたし、武満もそれの呼応するように、鳥の音の一回性を、作曲家であるみずからの聴取システムそのものを変容させる可能性さえ信じて、真摯に聞きつづけていた。メシアンの鳥たちに対する執着もそれに重なるだろうし、このとき鳥の声が種類ごとに異なっており、その歌の彩り豊かな数えきれない位相は、現実的にも享受できるものとして、深く愛されていた。石牟礼と鏡花の作品には、すぐそこにある日常に存在しつづけるものとして、かつ、どこか異界からの使者として鳥が描かれていた。神や神託と結ばれるフクロウや、怪異を予感させる五位鷺であってしても、あくまでも日常の暮らしの風景に存在するものであったことは、彼女、彼らのテクストが物語る次第である。それくらい、鳥が掻き立てる想像力は大きなものである。

このように、鳥が作家や音楽家、さらには日々を生きるわたしたちに与えてくれるギフトは、計り知れないように思われる。そしてそれは、わたしたちが、鳥たちの歌声を、厳密には理解することができないからこそ生まれている義父とであるようにも思う。
 つまり、鳥はその生態を含めて、未知そのものであるがゆえに、けっして十全には理解することは叶わないが、それにもかかわらず飛ぶ姿を目にし、その歌声の旋律の美しさや響きの楽しさを味わい、なにを歌っているのだろう、とイメージを膨らませてくれる——そんな稀有でやさしい、愉しい存在なのではないか。」

「鳥の歌は、音楽を能動的にも受動的にも享受する人間の想像力を、その聴取の可能性を、非言語のコミュニケーションのありかたを、どこまでも刺激しつづけている。そうして、必ずしもはっきりと意味をもつとはかぎらないさえずり、ざわめき、歌いへと耳を澄ませてゆく楽しみへと、待機の時間へと、わたしたちをいざなっている。——」

(「Ⅰ 祈るように鳥たちの声を聞く――大江健三郎」より)

「鳥に縁深い作家のひとりに、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎(1935- )が挙げられる。もとより大江の作品の中を歩いていると、鳥に限らず、いろいろな動物たちに出会えるのではあるが、そのなかでも鳥は特別な意味を込められているように思われる。
 というのも大江の作品には、あるときから名前が「鳥」という、一見すると奇異な普通名詞をあたえられた主人公あるいは登場人物が出現しはじめるからだ。
 象徴的なのは、1964年に発表された『個人的な体験』の主人公、「鳥バード」である。」

「そこから、ささやかながら垣間見えるのは、自然豊かな緑の森のなかで、鳥たちが囀るさまざまな音風景だった。しかし、種名を書き分けながら鳥が描かれるとき、さらにはその鳴き声にともに耳を傾けてゆくとき、そこに透けるように浮かび上がってくるのは、聴覚の鋭敏なイーヨーそのひとだけでなく、イーヨーにさまざまな鳥の声の録音を聴かせ続け、共に途方もない時間、鳥の声を聴き続けたであろう作家の生である。
 浴びせるように鳥の声を聞かせる時間を積み重ねた末に、母親の言葉にも反応しなかった子供から生まれでた、はじめての自発的な言葉が鳥の名であった驚異は、たまさかの偶然の瞬間とも、作為による結果であるとも言い難い。ただ、この出来事からは、長きに渡る待機そのものが、祈りの時間であったことをまざまざと感じさせられ、そのプロセスが、事後的に認識されるものであるとはいえ、祈りの時間を積み重ねていた作家の生をすでに示しているように思われるのである。」

(「Ⅱ 鳥の歌声は響かない――石牟礼道子」より)

「  にんげんはいやふくろうと居る (石牟礼1986,38)
 いくつもの鳥を印象的に描いている作家に、生涯、熊本で執筆活動をした石牟礼道子(一九二七〜二〇一八)がいりる。右の俳句は石牟礼によるもので、彼女はまるで「ふくろう」と不思議な関係をとり結んでいるようだ。そのまま受け取ると、人間であることはもう嫌だ、人間といることはもう嫌だから、わたしはふくろうと共にいる、共にいよう、といった心が詠まれているのだろうか。」

「石牟礼にとって鳥は、人の言葉を、あるいは、言葉ならざる思いを、次の世にまで越えて運んでゆく力を持つ存在として、そばにあったように思えてならない。」

(「Ⅲ 日常と非常をゆきかう鳥――泉鏡花」より)

「動物好きにはもちろん、鳥好きにうってつけの日本語文学の筆頭は、泉鏡花(一八七三−一九三九)だろう。その魅力は、小説であれ、戯曲であれ、ありふれた鳥たちも、あやかしの鳥も、手の届くすぐそこに、あるいは背中のすぐ後ろに、控えめではあるが、たしかに気配として感じられることにあるだろう。そして、ときにそうした鳥の声が、季節の風景とともにあざやかに聞こえてくるのである。」

(「Ⅳ 鳥と音楽、そして映画――武満徹」より)

「音楽には、一音として決しておなじ響きなどない、と言ってみることができるとして、しかし、いっぽうには、必ず、なにかしら同じものが引き継がれ繰り返される側面がある。その両義性を担保するひとつは、反復にともなう変奏——ヴァリアシオンの可能性だろう。そこには、なにか持続しているものがある。
 (…)自然の音はもちろんのこと、なかでも鳥に少なくなくインスピレーションを受けていた作曲家、武満徹(1930-1996)による音の探求を、彼のテクストに分け入って追うなかで、彼が生き生きとした一音を生み出そうとするもくろみが、《鳥は星形の庭に降りる》(1977)に代表されるように、視覚的な風景の創出と結ばれていることを見てきた。そして、最後、武満にとっては、独立した個としての音同士が響き合うように、個としての人間が社会と結ばれる契機として、映画音楽が大きな意味をもっており、集団制作に参与することで、ある種の匿名性がそこからひらけてくる創作のプロセスを垣間見た。
 思想的には、人間の耳では迫ることのできない鳥の啼き声の一回性やその都度の意味、響きに耳を傾けることに重きが置かれていたとわかるが、制作としては、たとえ鳥をテーマにするとしても、鳥の声を旋律によって模倣するといった次元ではまったくなく、表現を追求するなかで、自然の鳥たちの啼き声が混ざりあい、音の扶(たす)けあいが実現する境地が目指されていること——そのためにこそ生きた一音が希求されていること——を確認した、そのようにまとめられるだろう。」

「このように振り返ると、武満がみずからの、あるいは、さらに人間の聴覚そのものを変容させる契機としても耳を深く澄ませていた、鳥たちの啼き声は、ある種の神の使いとして鳥を思い描き、モチーフとして用いるような仕方とは異なっていただろうと想像される。鳥が舞い降りるような、可動的な風景を創出する背後には、神なしに、信仰なしに、音楽の音を宇宙的な次元へと届けてゆこうとする熾烈なもくろみがうごめいていたように思われるのである。」

(「Ⅴ 譜面に棲まう鳥たち――オリヴィエ・メシアン」より)

「鳥をモチーフに多数の曲を残している現代日本の作曲家として思う浮かぶひとりは、独学の作曲家、吉松隆(一九五三〜)だろう。(…) その吉松の鳥への愛着の背景で、もちろん意識されていた作曲家は、ほかでもないフランスの作曲家オリヴィエ・メシアン(一九〇八〜一九九二)である。メシアンは、二十世紀の作曲家の中でも、とりわけ鳥を愛していた作曲家として有名で、鳥にまつわる曲を作曲しただけでなく、世界中の鳥の鳴き声を採集した「鳥類学者」としての側面も持ち合わせている。
 しかし、同じ「鳥と緑のある作曲家」であっても、吉松とメシアンには決定的に異なる点がある。それは武満徹の音楽をたどった際にもテーマとして確認したことにつうじる。メシアンにはカトリックへの信仰があったことである。メシアンは教会のオルガニストとして活動し、ミサ曲も作っていた。」

「「鳥」を中心に彼のテクストを読み返して改めて考えると、メシアンがあくまでも感情ではないものとしてこだわり続けた「技法」——それには、具体的で現実的な鳥のさえずりをとらえることも含まれていた、と言えないだろうか。そして、それは抽象的な鳥のイメージだったり、象徴としての鳥だったり、あるいは、空想上の非現実的な鳥の動機(モチーフ)ではなく、実際の目にして姿形や学的情報を把握した鳥の歌の中から選ばれた配置だった、そのように思われてくる。
 メシアンと鳥についてはさらに議論を拡張できるだろう。本当のさえずりをどれほど譜面に再現できているのか、というのは、それはそれで細やかな対照作業が必要となる。メシアンの音楽にとっての鳥が、きわめて現実にもとづいて構想され、綿密な旋律を奏でていた(もっと言うと、演奏について計算され指定が厳格になされていた)ことに目を向けてみると、信仰のある世界にとって、自然の音、ざわめき、ノイズ、音符に書き表すことのできない音たちは、どのような意味をもっているのか、という大きな問いもまた、さやかに去来しないだろうか。メシアンの尽きることのない鳥に対する関心や執着——それと同じようにわたしたちも彼の音楽や音への神秘に、現実的な鳥への関心とともに、ひきこまれてゆく余地はあまりにも大きいように思われる。」

《目次》

はじめに

Ⅰ 祈るように鳥たちの声を聞く――大江健三郎
  一 鳥に由縁ある者たち  『個人的な体験』
  二 クイナのエピソードと捨子  『静かな生活』
  三 鷲から鷹の形象へ  『頭のいい雨の木』
  四 鳥のテーマの変奏  『燃えあがる緑の木』

Ⅱ 鳥の歌声は響かない――石牟礼道子
  一 空を飛ぶ鳥、鳴かない鳥  『苦海浄土』
  二 詩篇に描かれる鳥  「死民たちの春」
  三 歌われる鳥  『椿の海の記』から『あやとりの記』へ
  四 森と湖畔に響く声  『天湖』と『水はみどろの宮』
  五 奇跡の鳥、使いの鳥  『アニマの鳥』に向かって

Ⅲ 日常と非常をゆきかう鳥――泉鏡花
  一 鳥を待つ風景  『高野聖』あるいは「化鳥」
  二 鳥たちの語り  「春昼」、「春昼後刻」、「海の使者」
  三 平凡な鳥の声、取り憑く神の声  「山吹」と「多神教」
  四 庭先の雀たち  「二、三羽――十二羽、三羽」
  五 回帰する化鳥のイメージ  「神鷺之巻」
  六 日常非常の往還  「露宿」

Ⅳ 鳥と音楽、そして映画――武満徹
  一 鳥を待つ風景  『音、沈黙と測りあえるほどに』
  二 《樹》とともにある歌  《鳥は星形の庭に降りる》
  三 匿名の世界へ  映画音楽
  四 祈りについて  ジャズ
  五 神に対する距離  「樹の鏡、草原の鏡」

Ⅴ 譜面に棲まう鳥たち――オリヴィエ・メシアン
  一 鳥のモチーフ  《世の終わりのための四重奏曲》
  二 鳥の様式  『音楽言語の技法』
  三 日本の鳥への眼差し  「軽井沢の鳥」

終章 鳥のように話す声、あるいは非言語――モーリス・ブランショ
  一 モーリス・ブランショと鳥の歌  『謎のトマ』
  二 メシアン、それからデ・フォレ  『サミュエル・ウッドの詩』
  三 非言語のほうへ  『モロイ』

出典

あとがき

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