渡辺祐真「詩歌の話/詩歌の楽園 地獄の詩歌 第三回 散歩をするように詩歌を読む」(スピン)/高原英理『詩歌探偵フラヌール』
☆mediopos-3056 2023.3.31
高原英理『詩歌探偵フラヌール』は
すでにmediopos-2969(2023.1.3)でとりあげているが
これは書評家でゲーム作家の渡辺祐真が
その小説を紹介しながら
「散歩をするように詩歌を読む」という
詩のひとつの読み方を示唆しているエッセイである
フラヌールというのは「遊歩者」であり
十九世紀のパリにあらわれた
パサージュ(アーケード商店街)を
歩いていた人たちの総称
「遊歩」という訳語があるように
彼らは「特に商品を買うわけではないが、
群衆の中に交ざってぶらぶらと歩く人々」でもあった
ふつう歩くといえば
目的地に向かって歩くことが多いが
遊歩者は「どこかに行くわけでもなく、
ただぶらぶら」する
萩原朔太郎がこんなことを書いている
「樹木の多い郊外の屋敷町を、
幾度かぐるぐる廻ったあとで、
ふと或る賑やかな往来へ出た。
それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。」
しかし「気が付いて見れば、それは私のよく知っている、
近所の詰まらない、ありふれた郊外の町なのである。」
そのように「いつも歩いている角を、
いつもとは違う方角から眺め」ることで
「ありふれた景色」がまったく別の景色に見えたりもする
詩を読むということも
そうした「遊歩者」に似ているところがある
詩を読む(「遊歩」する)とき
その言葉は
日常で使われている言葉ではなくなっている
言葉のひとつひとつは
「私のよく知っている」「ありふれた」言葉だとしても
詩のなかでのそれらは
「全く、私の知らない」「美しい」言葉ともなるのだ
それを詩的言語ということもできる
詩的機能を付加された言葉である
それは日常的な言語行為とは異なり
目的をもった言語ではなく
「ただぶらぶら」することでしか
得ることのできない世界へと誘ってくれる
フラヌールすること
それは詩を味わうための大切な遊戯である
■渡辺祐真「詩歌の話/詩歌の楽園 地獄の詩歌
第三回 散歩をするように詩歌を読む」
(「スピン/spin 第3号」河出書房新社 2023/3 所収)
■高原英理『詩歌探偵フラヌール』(河出書房新社 2022/12)
■レベッカ ソルニット(東辻賢治郎 訳)
『ウォークス/歩くことの精神史』(左右社 2017/7)
(渡辺祐真「詩歌の話/詩歌の楽園 地獄の詩歌
第三回 散歩をするように詩歌を読む」より)
「先日、神戸の町を歩いていたとき、ふと、町を歩くのは詩を鑑賞する態度によく似ていると思った。ちょうど高原英理『詩歌探偵フラヌール』を読んでいたからだろう。タイトルの通り、詩歌をフラヌールする(歩く)作品だ。もっと正確に言うなら、詩歌を味わうことはフラヌールするようなものだと、実践してみせてくれる作品と言えるかもしれない。」
「「詩歌探偵フラヌール」は、メリとジュンという、言葉の感性が鋭敏で、好奇心旺盛な二人組が、言葉に溢れた町を散歩して、日常に潜む詩句や、萩原朔太郎、ランボー、大手拓次、鷹羽狩行、『閑吟集』、左川ちかなどの名だたる詩歌作品に出会う。しかもその遭遇方法がどれも素敵だ。」
「フラヌール(遊歩者)は、十九世紀のパリに現れた。彼らはパサージュ・クヴェール(一般的には「パサージュ」)という一帯を歩いていた歩行者の総称である。パサージュは今でいうアーケードの商店街のようなものだ。公道と私道を結ぶ歩行者の通り道、一部がガラス————またはプラスチックでできた屋根で覆われているなどの特徴がある。」
(・・・)
特に商品を買うわけではないが、群衆の中に交ざってぶらぶらと歩く人々が現れた。こうした種類の人間は、それまで存在しなかったのだ。なぜなら、群衆に紛れ込まなければ、用もなくぶらぶらと歩いていては怪しまれる。しかも、パサージュは商店街であると同時に、通路でもあったために、どれだけいても文句を言われる筋合いがない。更に、何も無い山の中を歩いても退屈だが、商店街なら品物や人間を観察できる。したがって、彼らは心行くまで、パサージュをぶらぶらと歩き、様々なものを目ざとく鑑賞する「遊歩」に興じることができたのだ。これがフラヌールだ。
こうした遊歩者の態度について、「歩行」を軸に人類史を描いた作家レベッカ・ソルニットは次のように述べている。
遊歩者は辺縁に漂い、孤独でもなければ社交的でもなく、くらくらするほどに莫大な群衆と物品の集塊としてのパリを経験している。
買い物をするわけではないが、適切な距離感を保ちながら、パサージュの物や人に感心を払い、それを体験している。これは、メリとジュンの詩歌の付き合い方だ。詩歌の意味を深追いするわけではなく、適切な距離で楽しむ。つまり、我々が詩と良い関係である態度の一つがフラヌールなのだ。」
「普通、歩行はどこか目的地を目指すものだ。そのとき、道や標識は意味を持っている。だが、どこかに行くわけでもなく、ただぶらぶらしてみると、ありふれた道は煌めき、標識や看板ですら景観に一変する。
先述の萩原朔太郎の次の文章は、実に示唆的だ。
樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。(中略)私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、どうしてこんな町があったのだろう?
近所の驚くほど美しい街並みがあったことに驚愕している。だが、その幻想はあっという間に醒めてしまう。
私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰まらない、ありふれた郊外の町なのである。
いつも歩いている角を、いつもとは違う方角から眺めたのだ。皆さんにも覚えがないだろうか。私の場合、朔太郎とは少し違うが、学生の頃、たまたま空き時間ができたことで、通学路を通っている雑居ビルをふと見上げた。すると、一階部分だけは何度も見ていたビルだったが、曲線を描き、空高くそびえている相貌がなんとも言えないほど美しく感じられたのだ。
ベンヤミンや朔太郎の述べる、ありふれた景色に見出す美とはそのような意味だろう。」
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