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安藤礼二「空海 第六章「不空」/連載第八回」/空海「請来目録」/石田 幹之助『長安の春』

☆mediopos2864  2022.9.20

唐の都・長安の時代に惹かれる

石田幹之助『長安の春』で紹介された
西域の歌舞・音曲・雑技
とりわけソグドの「胡旋舞」
そして祆教・景教・摩尼教
つまりゾロアスター教・
ネストリウス派キリスト教・マニ教
それらが長安で展開されている時代に

空海は恵果から
『大日経』にもとづいた「胎蔵」の教義と
『金剛頂経』にもとづいた「金剛」の教義を学び
それを日本に伝え真言密教を興す

恵果から学んだことは
そのほとんどが不空と般若に由来する
不空の没年と空海の生年とは完全に重なり合い
空海は不空の生まれ変わりだとされてもいる

そして不空も般若も
ソグド人たちと深く関係している
そしてその背景には
祆教・景教・摩尼教があり
空海の密教は仏教といいながら
ほとんど釈迦仏教とは異質な教えである

当時の長安における密教は
祆教・景教・摩尼教なくしては
そしてソグド人たちからの影響なくしては
成立しえないものだったともいえそうだ

そして不空の教えが「安禄山の乱」など
政治的なものと深く関わっていたように
空海の密教もまた「請来」にあたって
「護国」の思想と深く関わっている

その「護国」とは
その教えを生んだのが漢人ではなく
ソグド人などの異邦人だったように
「異邦人たち、マイノリティたちを決して排除しない
「国」を収める主、「王」を守護するという教え」である

ある意味で空海の説く「即身成仏」は
「国」をも「即身成仏」させんとする
意図をもっていたのかもしれない
つまりすべての人間そして「国」そのものが
「大日如来」と化すること・・・

唐の都・長安の時代に惹かれるのは
空海のそんな壮大なヴィジョンに憧れるとともに
異邦人たちが集まった世界に
さまざまな文化や思想が集まり
そのなかで胡旋舞が舞われている・・・
そんな長安にいる自分を思い出すからかもしれない

■安藤礼二「空海 第六章「不空」/連載第八回」
 (『群像 2022年 10 月号』講談社 2022/9 所収)
■空海「請来目録」
 (宮坂 宥勝『空海コレクション 2 』
  ちくま学芸文庫 筑摩書房 2004/11 所収)
■石田 幹之助『長安の春』
  (講談社学術文庫 講談社 1979/7)

(安藤礼二「空海 第六章「不空」/連載第八回」〜「1 安禄山」より)

「空海は唐へ渡ることによって、文字通り「空海」となった。」

「仮名乞児はいかにして「空海」となったのか。空海がその内実を、内外に向けて宣言したものが、唐からの帰国直後である大同元年(八〇六)一〇月二二日という完成の日付をもち、太宰府でまとめられた『請来目録』であった。」

「空海は、(・・・)恵果から「密蔵」の教え、つまりは「両部の大法」、『大日経』にもとづいた「胎蔵」の教義と『金剛頂経』にもとづいた「金剛」の教義を実際に学び、二つの曼荼羅を構成する「諸尊」との「瑜伽」の方法を実際に習ったとされるのである。」
「しかしながら、この『請来目録』全体を通して考えるならば、恵果とは、なによりも不空の「弟子」であったことこそが、空海にとって重要であったと理解される。空海が、この極東の列島にはじめて請来した経典類の大部分————そのほとんどすべて————が不空による新訳の経典類であり、その他の多くも、あるいは不空の意図に沿うようにして、もしくは不空が確立した教義の特色を浮き彫りにするようにして、形を整えた経典類ばかりであったからだ。恵果から空海へと付嘱されたのは思想ではなく「もの」に過ぎなかった。」
「空海は、恵果を介して、恵果の師である不空の「思想」をこそダイレクトに引き継いだのである。『請来目録』は、そのすべてを費やして、ただそうした事実のみを伝えてくれている。しかもその上、不空の没年と空海の生年とは完全に重なり合い、その入滅と誕生の日————六月一五日————は完全に一致していた。自分は不空の生まれ変わりであり、それゆえに時間と空間の隔たりを超えて、恵果という生き証人を介して、その教えを引き継ぐことが可能になったのだ。空海は、そのような思いを抱いていたはずだ。」

「天宝年間、南天竺から唐に渡った不空は玄宗をはじめとして粛宗、代宗という三代にわたる皇帝たちに灌頂を授け、正真正銘の国の師、皇帝に対する宗教的な指導者となった・・・・・・。空海はそのように述べているが、実際に不空が帝国の宗教的な指導者となるためには、帝国にいったんは破滅をもたらした「敵」と正面から対峙する必要があった。そのことが、不空の思想、つまりは空海の思想を、極東の歴史のみならず、世界の歴史へと接続していくのである。帝国にとって最大の脅威となった者を政治的、宗教的に凌駕していく。そのことによって不空は帝国の宗教的な指導者ばかりでなく、政治的な指導者ともなっていった。帝国にいったんは破滅をもたらしたその「敵」の名は、安禄山という。」

「安禄山を宗教的にも政治的にも量がする。そのようにして帝国の宗教的かつ政治的な指導者となった不空の後を、代宗から徳宗の時代に継いだのが恵果であった。」

「『請来目録』に記された金剛乗の始祖たちのうち、いわゆる歴史的な個人として存在するのは、不空の師である金剛智、不空、そして不空の弟子である恵果の三人のみである。龍猛と龍智はともに神話的な存在であり。その龍猛と龍智を介して、毘盧遮那如来(大日如来)と金剛薩埵という歴史的にも神話的にもこの現実を超越した、根源的な語り手と根源的な聞き手という「対」へとその系譜がたどられていくのである。逆に考えれば、金剛乗密教とは、現実的には、ただ不空によってのみ準備され、完成され、後世に伝えられた、まったく新たな教えであったということもできる。空海は、我が教えの「祖」に不空を位置づけていた。そしてまた、この系譜のうちに、あらゆる仏教すべての始祖、釈尊ことゴータマ・シッダッタの存在する余地はない。」

「恵果と同等に、あるいはそれ以上の重要な役割を果たしたと推定されているのが、やはり空海が『請来目録』のなかにその名を残した「梵語」の師であった般若三蔵である。不空から般若へ。そこにこそ金剛乗の、真の意味での完成が見出されるはずである。

「金剛乗の教義をまとめた不空も般若も、純粋な漢人ではなかった。空海は、不空の出生地を(・・・)一貫して「南天竺」と記している。『金剛頂経』、つまりは金剛乗を可能にした、宇宙大の唯一の書物が生まれたとされる地である。」

「般若が生まれたという罽賓国は、現代のインドとパキスタン、さらには中国とも国境を接しているカシュミール近辺に存在していたという。複数の文化的アイデンティティを生きざるを得ない人物であった。不空も般若も、空海と同様、異邦人であった。仏教とは、異邦人たちの宗教だったのである。しかも、不空と般若の両者とも「胡人」たち、ソグド人たちと密接な関係をもっていたと推定されている。ソグド人たちは、この当時、唐の地に、三夷教と総称される異邦の宗教、祆教・景教・摩尼教、すなわちゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教・マニ教をもたらしていた。(・・・)不空と般若は、そのようなソグド人ネットワーク、「雑種胡人」のネットワークのなかで、金剛乗密教の教義を磨き上げていったのである。」

「不空の金剛乗が明確な大系をもちはじめるのは、安禄山の乱が平定された後からのことである。不空と般若による金剛乗とは、ソグド人たちがもたらした三夷教との反撥と共振のなかではじめて形をなしたソグド人たちの仏教でもあった。」

(安藤礼二「空海 第六章「不空」/連載第八回」〜「2 般若」より)

「神の預言のうちに、肉の身体と光の精神————光の身体————を重ね合わせたマニ教。そして、イエスの身体のうちに人性と神性との「連結」を見出し、人間が神に近づいていく自由を保障したネストリウス派キリスト教、そのいずれもが、ソグド人たちに受容されていったことは偶然ではなかったはずだ。ソグド人たちによって長安にもたらされた、異邦に起源をもつ三夷教、祆教・景教・摩尼教、つまりゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教・マニ教は、まったく別のものではなかった。相互に関連し合う教えであった。そしてまた、漢文化圏に生きる人々にとっては、仏教もまた、異邦に起源をもつ教えであった。漢文化圏に自生した二つの宗教、儒教および道教(老荘思想)と緊張関係を保ちながら、徐々に相互浸透していったのであある。」

「空海は、不空に源泉をもち、般若によって完成した「護国」の思想とともにあった。その「護国」は、異邦人たち、マイノリティたちを決して排除しない「国」を収める主、「王」を守護するという教えであった。もちろんその「王」には、破壊の側面、悪の側面も存在する。しかし、真の「王」とは、自己の内なる破壊、自己の内なる悪を、他者との外なる関係の構築、他者に対する善の贈与へと変換できる者のことであった。「王」とは人々の生き方のモデルであり、その目標であった。不空は、般若は、大唐帝国にとって故郷をもたない他者であり、放浪者であった。だからこそ、他者であり放浪者であるソグド人たちの仏教を組織することができた。ソグド人たちの故郷、サマルカンドで仏教が隆盛したという証拠は、いまだに見出すことができない。サマルカンドまで仏教は入らなかったのだ。ソグド人たちは故郷を離れることで他者の宗教である仏教を受容したのである。空海にとっても、おそらくソグド人は未知で異質な存在ではなかった。唐を離れる直前、空海は自らの求法の旅を、鑑真の求法の旅に重ね合わせていた。鑑真に付き従ってこの極東の地を訪れ、そこで僧侶となった安如宝は、「安」という名字をもつことから、ソグド人であったと考えられている。唐招提寺に嵯峨天皇から封戸五〇戸を恩賜されたとき、如宝に代わって嵯峨帝に謝辞を認めたのは空海であった。空海は、いついかなる時においても、異邦のソグド人とともにあったのである。」

(石田 幹之助『長安の春』〜「隋唐時代におけるイラン文化のシナ流入」より)

「漢魏六朝を通じて徐々にシナに入って来たイラン方面の文化は隋唐の時代におよんでいっそういちじるしい流伝をみるにいたった。シナと外国文化との関係においてシナの歴史をみるならば、隋唐はまさにイラン文化全盛の時代といっても過言ではなく、宗教・絵画・彫刻・建築・工芸・音楽・舞踊・遊戯等の各部門はもとより、衣食住、ことに衣食の両方面において、広くイラン文化の感化をみることができる。」

「宗教ではイランの国教ともいうべきザラトゥーストラ教をまず第一にあげなければなるまい。」

「この時代に東伝してシナに行われたイラン系宗教の第二はマニ教である。」

「この時代に西方より東方へ伝わった宗教の第三は耶蘇教の一派たるネストリウス派、すなわちシナにいわゆる景教である。」

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