柳田國男『禁忌習俗事典/タブーの民俗学手帳』
☆mediopos-2304 2021.3.8
柳田國男全集には収録されていない
『禁忌習俗事典/タブーの民俗学手帳』が文庫化された
昭和一三年に刊行されて以来の資料となる
忘れられようとしているまたは忘れられてしまった
「禁忌(タブー)」を民俗学的に収録したもの
「禁忌」の
「禁」とは
神を祀る神聖な地域に
入ることを禁じることであり
「忌」とは
敬いつつしんで神に仕え
身を清めつつしむことだという
「禁忌」は
「境」や「聖」とも関係している
「境」とは
神のお告げと関わっていて
異界や他界とのあいだを分かち
「聖」とは
神の啓示を聞く人のこと
こうした言葉からもわかるように
禁忌(タブー)の背景には
神的宗教的な背景が強く働いているが
実際的な必要性から生まれているものもある
それは時代とともに変わっていき
意味がわからなくなってしまったものの
習俗だけが残っていることもあれば
習俗そのものが失われてしまうこともある
宗教的な共同体での禁忌は
変わらぬまま残っていきやすいだろうが
根強く残る禁忌は
汚れや差別の根っ子になっているものもあり
無意識に深く刷り込まれていたりする
とはいえ現代においては
共同体意識の変化や人権意識の変化
生活様式の激変などとともに
かつての禁忌をつくりだしていた境界が
失われてきているがゆえに
かつてあった禁忌は禁忌ではなくなってくるだろう
しかしながら禁忌そのものが失われることはない
禁忌は時代に応じた形で
さまざまな姿をとって新たに生まれてくる
科学や理性の(見せかけの)光が
光ゆえにつくりだしてしまう影が
禁忌となってしまうこともあるだろうし
都市伝説や小集団の中での戒律のように
(現在のコロナ禍やSNSなども通じながら)
一時的に流行することになる禁忌に近い習俗も
生まれてくることもあるだろう
そんななかで重要なのは
私たち一人ひとりが禁忌に対して
どんな態度をもつかということだ
禁忌は明文化された法やルールではなく
生を規定する集合意識の深みから生まれ
私たちの行動を規制するものだから
その禁忌をすべて意識化することはむずかしく
無意識から働いてしまうことは半ば避けられない
根強く働いている禁忌を破ろうとするとき
激しい抵抗が生まれることはいうまでもない
できることは
過去の禁忌の実際を知り
それをもとに現代の禁忌の実際を
聖と俗を超えながら
でき得るかぎり光のもとに置いてみること
そしてそこでじぶんのなかに生まれる
影との付き合い方を工夫してみることだろう
その影はじぶんのいちぶと化しているはずだから
じぶんを規定している禁忌を知ることで
影に気づくきっかけにもなり得るのではないか
■柳田國男『禁忌習俗事典/タブーの民俗学手帳』(河出文庫 2021.3)
■赤坂憲雄『境界の発生』(講談社学術文庫 2002.6)
■オットー(山谷省吾訳)『聖なるもの』(岩波文庫 1968.12)
■白川静『常用字解』(平凡社 2003.12)
(柳田國男『禁忌習俗事典』より)
「我邦では現在イミという一語が、かなり差別の著しい二つ以上の用途に働いている。極度に清浄なるものは祭の屋の忌火であるが、別の或る種の忌屋の火はこれに交わることを穢として避けられる。忌を厳守する者の法則にも、外から憚って近づかぬものと、内に在って警戒して、すべての忌で無いものを排除せんとする場合とがある。かように両端に立ち分かれているものだったら、最初一つの語によってこれを処理しようとするわけが無い。以前は今よりも感覚が相近く、かつその間にもっと筋道の立った聯絡があったのではあるまいか。この問題に疑いを抱き始めてから、既に自分でも驚くほどの年数が過ぎている。素より外国の学者の研究に、参考になったものも色々とあるが、彼等は自分の国にこの事実は持ち合わさず、いつでもよその種族の及び腰の観測に依って、意見を立てなければならなかった上に、仮に根源の世界一致を認めるにしても、個々の国民が経由して来た千年の歴史の発達を、まだ全く知らないで仮定した説なのである。果たして物忌が彼等の謂う所のタブーであるか否か、これからしてまず第一に首肯し難い。日本人自身が今はまだ、忌のどう変遷したかを知っていないからである。
或いはこんにちは時期がもう遅い。これから尋ねてみようとしても、資材は滅び失せたものが多かろうとも考えられる。しかし我々に知りたい念慮のある限り、そうしや他には試むべき手段が無い限り、やはりこの途を踏んで行くの他は無いのである。」
(赤坂憲雄『境界の発生』より)
「かつて境界とは眼に見え、手で触れることのできる、疑う余地のない自明なものと信じられていた。しかし、わたしたちの時代には、もはやあらゆる境界の自明性が喪われたように見える。境界が溶けてゆく時代、わたしたちの生の現場をそう名付けてもよい。
たとえば、生/死を分かつ境界。」
「あるいは、男/女・大人/子供・夜/昼そして想像/現実・・・・・・を分かつ境界、いや、おそらくは境界という境界のすべてがいま曖昧に溶け去ろうとしている。異界ないし他界という、超越的な彼岸がわたしたちの日常の地平から根絶やしに逐われたとき、いっさいの境界が自明のものとして存在しつづけるための根拠もまた、潰えてしまったのかもしれない。異界=他界という、差異の絶対的な指標の喪われた場所では、境界はたえざる浮遊状態のなかに宙吊りされている。」
「あらゆる境界が喪われてゆく時代に、それゆえ、可視的な境界によって空間と時間を分節化する古きさびた世界=宇宙観が、やがて無効を宣告されようとしている時代に、境界論がひとつの有効な方法=視座として、さまざまな知の領域で発見されつつある。これは疑いもなく一個の逆説である。しかし、そこには不透明な色合いはない。たぶん、知が志向する対象はその自明性が剥げ落ちてゆく時代にこそ、はじめて熱い関心が向けられる。知の眼差しの下に問題として浮上してくるものであるのだから。境界線喪失の時代ゆえに、いま、境界論が前景に炙り出されてきているとかんがえてよい。」
「境界が失われるとき、世界はいやおうなしに変容を強いられる。境界的な場所、たとえば辻や橋のたもとは、かつて妖怪や怨霊たちが跳梁する魔性の空間と信じられていたが、境界に対する感受性の衰えとともに、わたしたちはそれら魔性のモノや空間そのものを喪失してしまった。そうして世界はいま、魔性ともカオスや闇とも無縁に、ひたすらのっぺりと明るい均質観に浸されている。」
(オットー『聖なるもの』より)
「この客体的な、私の外に感じられるヌミノーゼ自身の本質と状態とは何か。
それは実際、非合理的であって、概念で説明しがたいから、ただ心情内で喚起される特別な環状反応によってのみ示唆されうる。」
「私たちは凡ての強い宗教感情発動のうちで、最も深いものを観察しよう。それは救いの信仰や信頼や愛などにまさるもの、これらの随伴者を置き去って、私たちの心情をほとんど眩ますばかりの力をもって動かし、満たしうるものである。」
「自然的恐怖からも、またいわゆる一般的な「世界不安」からも、宗教は生まれてこない。なぜなら「おそれる」は自然的な恐れではないし、たとい粗野な「薄気味悪い」という形をとっているとしても、すでにそれ自身が神秘的なものの最初の発動であり、それの気配だからである。言いかえると、それは普通の自然的領域に属しない、自然的なものの中にはいらない範疇による最初の価値判断である。そして、このことは自然的素質と全く異なる、独特な心的素質が目ざめている人にのみ可能である。この素質は、初めの間はただ急激に、粗野な形で現れるが、しかもそれ自身は、そのようなものとして、人間精神の全く特有な、新しい体験と価値判断との作用を示している。」
(白川静『常用字解』〜「忌」より)
「敬いつつしんで神に仕える意味である。また忌は跪と音が近く、跪はひざまずくの意味である。」
「禁忌(けがれがあるとして禁止すること。タブー)を守り、身を清め、つつしむことを「いむ」という。いみ避ける、けがれを避けるという意味から、やがて「いまわしい」(縁起が悪い、いやな感じがする)というように意味が展開していった。」
(白川静『常用字解』〜「禁」より)
「林と示とを組みあわせた形。林は木の生い茂る所で、神の住む所とされた。示は神を祭るときに使う机である祭卓の形。祭卓を置き、神を祀る神聖な地域を禁という。そこは神のいる神域であるから、そこで鳥獣を捕ることを禁じ、俗人が立ち入ることを禁止したので、禁は「とどめる、とめる、禁止(してはいけないとさし止めること)」の意味となる。また王宮や宮殿のある場所も禁ちょ同じような神聖な場所であるとみて、禁衛・禁中・禁門のようにいう。」
(白川静『常用字解』〜「境」より)
「音は言(神に誓い祈ることば)を神前に供えて祈り、その祈りに応える神の音ない(訪れ)、音によって示される神のお告げである。その音を捧げる形が竟で、神のお告げがあれば、祈りは終わり、実現するのである。それで竟には、おわるという意味がある。おわるの意味を土地の上に移した境は、領地の終わるところ、すなわち「さかい」の意味となる。」
(白川静『常用字解』〜「聖」より)
「祝詞を唱え、つま先立って神に祈り、神の声、神の啓示(お告げ)聞くことができる人を聖といい、聖職者の意味となる。」
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