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伊藤潤一郎「投壜通信7.断片と耳」(『群像 )/藤原辰史『歴史の屑拾い』/ロラン・バルト『零度のエクリチュール』

☆mediopos2977  2023.1.11.

だれでもない「あなた」という
不定の二人称に向けて
「投壜通信」という言葉の断片が送られる

それは誰にも届かず
聴き取られないかもしれない

しかし「投壜通信」を見つけ
それを「聞き拾う」ことができたとき
それは「私にしか聴き取れない声」となり得る

なぜ「投壜通信」を見つけることができたのか
なぜそれが「私」に宛てられたと思うのか

言葉の断片は言葉の断片だが
それが「私」に宛てられたと思うとき
それは「文体」という
「身体の力から生まれる」
「個人的で孤独な領域」の言葉となる

それはAIが作り出す言葉ではない
AIには生々しい身体がないからだ

AIが作り出す言葉には
「大多数のひとが想定するようなトーンがあり、
そこから一般的な「意味」なるものが共有され」る

それは「情報処理」に適した言葉で
「私にしか聴き取れない声」ではない
たとえどんなに似せて作られようとも
その言葉には「文体」はない

ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』のなかで
「文体は宛先なき形式であり、
意志ではなく衝動的な力の所産であり、
思考の垂直で孤独な側面のようなもの」だとしたが

伊藤潤一郎は「文体はそれがいかに孤独なものであっても、
「あなた」という宛先をもちうるのではない」かという

「身体から発した不如意な文体」だからこそ
「「あなた」を呼び止める
きっかけになっているのではないか」と

文体を読み取る身体とは「耳」である
その「耳」が
「私にしか聴き取れない声」を聴き取る
「情報処理」の言葉には決してならない「声」を

こうして日々書きつけているmedioposの言葉も
「投壜通信」にほかならない
日々「聞き拾」った「声」を
「おのずと他の言葉へと結び」つけ
そこから「新たな意味」が生まれればと切に願っている

だれでもない「あなた」だけれど
この言葉の断片を「聞き拾」った「あなた」の
「耳」を呼び止められますように

■伊藤潤一郎「投壜通信 7.断片と耳」
 (『群像 2023年02月号』講談社 所収)
■藤原辰史『歴史の屑拾い』(講談社 2022/10)
 ※mediopos-2905(2022.10.31)でも取り上げています
■ロラン・バルト(渡辺淳・沢村昂一訳)
 『零度のエクリチュール』(みすず書房 1971/7)

(伊藤潤一郎「投壜通信 7.断片と耳」より)

「藤原辰史『歴史の屑拾い』を読むと、紙に書かれた言葉はたしかに白黒かもしれないが、そこには言葉のトーンとでも呼ぶべきものがあることに気づく。そう直截述べられてはいないは、「『ナチスのキッチン』を書く前、私はあえて語り口や展開などの要素にこだわろうと心に決めていた」と述べる藤原にとって、歴史の屑拾いとは断片のトーンを聴き取ることなのではないだろうか。実際、赤坂憲雄との往復書簡では、次のようにも言われていた。

  史料を読むことは、結局は死者が語りこぼしたものや、語りきれなかったものを、もろとも聞き拾うことであり、だからこそ、読み手の人生もかかっている。そのような態度で史料に向かわないと、AIの書く歴史学に持っていかれるのではないか、いや、歴史学はだんだんと情報処理に変化しつつあるのではないか、と思うのです。

 白黒の文字で書かれていても、そこには言葉のトーンがある。しかし、トーンはそれとしては書かれていないため、読み手が耳を澄まして聴き取るときに、はじめてその姿を現す。ということは、読み手によってその言葉のヨーンは異なるのであり、卑近な例でいえば、「すごいですね」という一言でさえ、心からの賞賛なのか皮肉なのか、はたまたこれ以上あなたとは深いコミュニケーションをしたくないので適当にこの場をやり過ごしますという態度なのか、文字列だけからでは決めることができない。とりわけ、断片的な短い言葉になればなるほど前後の文脈がないため、トーンはさまざまに変化しうるだろう。とはいえ、たいていの場合、大多数のひとが想定するようなトーンがあり、そこから一般的な「意味」なるものが共有されていくのも事実だ。これはこうとしか読めない。そういうものが溢れかえる世界は「情報処理」には向いているのちがいない。しかし、ときにひとは言葉のなかに特異なトーンを聴き取ってしまう。藤原が「聞き拾う」という絶妙な言葉で言い表しているのも、まさに一般化され通念となった意味に回収されえないトーンを断片のなかに聴き取る態度だといえよう。断片を読み、それが新たな意味を生みだすような関係性のなかに置くには、なによりもまず断片の特異なトーンを聴き取らねばならない。」

「当然だが、あらゆる言葉が私宛ての投壜通信となることはなく、すべての言葉に特異なトーンを返せるわけではない。それぞれのひとにはうまくトーンを聴き取れる言葉と聴き取れない言葉がある。いわば、私たちは日々触れる言葉をつねに篩にかけており、網目を通り抜けて下に落ちていかなかった言葉に応答しているのだが、この篩とはいったいなんなのだろうか。もちろん、意識的に引っかかる言葉を選び、その理由を説明できるときもあるが、なぜこの言葉に反応してしまうのか自分でもよくわからないときもあるだろう————少なくとも私にはある。このよくわからない篩を、いまの私はうまく説明することができない。いや、そもそも、説明してはならないのかもしれない。なぜかふと反応してしまう言葉、深い愛着を覚える言葉の理由を説明できたら、その言葉が私にとってももつ意味や価値は、誰とでも共有できる論理にすでに含まれてしまっており、そこに私は必要ない。

 にもかかわらず、完全な説明が意味をなさないと承知のうえで、ここにひとつの概念を結び付けてみたい。それは、ロラン・バルトが『零度のエクリチュール』で提示した「文体(style)」である。バルトはこの最初の著書において「ラング」「エクリチュール」「文体」という三つの概念を用いて文学を捉えようとしたが、このうち「文体」とは、作家が自由に選択しえない、作家の過去や身体に出来する語り口や語彙を指している。注目したいのは、語り口が身体と結びつけられたうえで、「宛先」と関係づけられているところだ。

  文体はいかに洗練されていようとも、なにか生々しいものをつねにもっている。文体は宛先なき形式であり、意志ではなく衝動的な力の所産であり、思考の垂直で孤独な側面のようなものである。

 身体の力から生まれる文体は、きわめて個人的で孤独な領域であり、作家自身が思い通りにできないという点で、意識的な把握とは別の次元に存在している。バルトの「文体」概念は、語り口やトーンが語り手や書き手のコントロールになことを見事に浮き彫りにしているが、一点だけ修正を加えなければならない。文体が宛先をもたないとされているところだ。特異なトーンを聴き取る投壜通信の場面から考えるならば、文体はそれがいかに孤独なものであっても、「あなた」という宛先をもちうるのではないだろうか。むしろ、身体から発した不如意な文体こそ、「あなた」を呼び止めるきっかけになっているのではないか。バルトが敬愛する歴史家ミシュレを論じるなかで書きつけた、「人間の身体は、それ全体が直接的な判断である」という一節もまた、私たちの篩が身体と関連していることを示唆している。ただし、それは文体を生み出す身体であると同時に、文体を読み取る身体でもあり、より象徴的にいうならば「耳」ということになるだろう。耳とは篩にほかならない。

 したがって、岸辺で壜を拾い上げる者に必要なのは、私にしか聴き取れない声を聴き取る耳なのである。この耳をもってさえいれば、細切れにされた時間のなかで拾い上げた断片であっても、おのずと他の言葉へと結びつき、新たな意味が生まれていくことだろう。」

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