國分功一郎『目的への抵抗』/ハンナ・アーレント『人間の条件』・『過去と未来の間――政治思想への8試論』
☆mediopos-3079 2023.4.23
本書は東京大学において行われた
國分功一郎による「哲学講話」だが
ここで論じられていることが
そうした場で論じられなければならないということ
そのものに現代の病巣が現れているともいえそうである
論じられていることは
ある意味「言うまでもないこと」であるからである
勿論アーレント等による議論によって
「言うまでもないこと」の論点が
明確にされているということは重要であるし
そうして言挙げされることによって
その重要性が認識されることになる
しかし國分功一郎が「はじめに」において
「私たちは目的なる語なしでは
何かを考えることができなくなっている。」
「目的なるものをそれ自体として
検討の対象に取り上げるという所作そのものが、
それを耳にした人に、全く理解できない外国語を
聞いた時のような反応を引き起こすのではなかろうか。」
「実際、私自身がそのような反応をしていた一人であった。」
とおそらく正直に述べている
ここで如実に表れているのは
ある意味で現代のように学校教育からの影響を強く受け
そこで与えられた「目的」を信じ続けるということが
「目的なる語なしでは
何かを考えることができなくなっている。」という
いわば合目的な生への盲信に他ならないということである
本書の冒頭で掲げられているように
論じられているのは
「自由は目的に抵抗する。
自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。
人間が自由であるための重要な要素の一つは、
人間が目的に縛られないことであり、
目的に抗するところにこそ人間の自由がある。」
という極めてシンプルな
「言うまでもないこと」であり
(勿論言語化し得るということの意義は多大だが)
そのことが
目的と手段
目的と自由
目的と遊び
といった点において
主にアーレントの議論をガイドに論じられている
おそらく『目的への抵抗』という「哲学的講話」が
なされなければならなかったのは
現在の「コロナ禍」における
「不要不急の・・・はお控えください」
という紋切り型の
強制力を伴った言葉のもつ危険性ゆえのものでもあるだろう
それはかつて今回と同様強制力を伴って発せられていた
「欲しがりません勝つまでは」という言葉と似ている
「不要不急」は「必要」に関わる言葉で
それは「目的」という概念と切り離せない
著者は「すべてを目的に還元する論理が
それと共犯関係を結んでこの社会を覆いつつあるのではないか。」
という危機感をもっている
そしてそれは今回のコロナ禍以前から
支配的になりつつある事態ではないかというのである
そして「目的」は「手段」を正当化するというよりも
「目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。」
(アーレント)
そしてアーレントは「目的のために効果的であるならば
あらゆる手段が許されるという考えを追求していくと、
最後には「恐るべき結果」が訪れる」のだともいう
アーレントの想定していた「恐るべき結果」は
現在の「コロナ禍」のことではないとしても
今現実に起こりつつあるのは
現代版の「恐るべき結果」である
そうした「恐るべき結果」を避けるためには
「行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、
しかも他方では予言可能な結果としての
意図された目標からも自由でなければならない。」という
(アーレント)
國分功一郎はそうした
「目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、
手段と目的の連関を逃れる活動、
それは一言で言うと「遊び」」なのだという
自由であるためには「遊び」によって
目的に抵抗し目的を超えなければならない
ともあれ「目的に抵抗」しようとするならば
まずは「目的」に自覚的になり
その「目的」がどんな「結果」をもたらし得るのか
じぶんは「目的」に囚われてしか
行為し得なくなっているのではないか
そこに「自由」はあり得るかを問わなければならないだろう
少なくとも「教えられた目的」に
疑いもなく従ってしまうことは
「自由」をじぶんから捨ててしまうことになる
現代はそんな「反面教師」としての「教訓」に充ちている
その「教訓」から学ぶためにも「自由」という観点は欠かせない
■國分功一郎『目的への抵抗』(新潮新書 2023/4)
■ハンナ・アレント(志水速雄訳)『人間の条件』(ちくま学芸文庫 1994/10)
■ハンナ・アーレント(斎藤純一・引田隆也訳)
『過去と未来の間――政治思想への8試論』(みすず書房 1994/9)
(國分功一郎『目的への抵抗』〜「はじめに————目的に抵抗する〈自由〉」より)
「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。」
「私たちは目的なる語なしでは何かを考えることができなくなっている。目的に概念なしでは仕事をすることもできないだろう。もしかしたら生活もできないかもしれない。目的はそれほどまでに深く私たちの身心に入り込んでいる。いや、そもそも、これらの指摘すら意味不明の言葉として受け止められてしまうかもしれない。目的なるものをそれ自体として検討の対象に取り上げるという所作そのものが、それを耳にした人に、全く理解できない外国語を聞いた時のような反応を引き起こすのではなかろうか。
実際、私自身がそのような反応をしていた一人であった。だから、まだ覚えているのである、目的の概念そのものを批判的に検討するという目論見が人に引き起こしかねない感覚を。
(・・・)
私自身が、本書によって批判的に検討されている社会的傾向にどっぷりと浸かっていたことを意味している。目的の概念の批判的な検討は、私が専門としている哲学の領域では頻繁に行われていた。だから私はそうした試みがあることはよく知っていた。しかし、その意味を全く理解できないでいた。目的の概念を問いただす・・・・・・。そんな試みを耳にするたび、私はまさしく、全く理解できない外国語を聞いた時のような反応を繰り返していた。」
(國分功一郎『目的への抵抗』〜「第二部 不要不急と民主主義————目的、手段、遊び」より)
「「不要不急の外出」「不要不急の仕事」「不要不急のイベント」「不要不急の冠婚葬祭」・・・・・・・この四字熟語は様々な言葉に付されました。(・・・)
定義を見ると、不要不急が「必要」に関わっていることがわかります。この熟語の核心にあるのは、必要の概念に他なりません。(・・・)
今日、これから必要について指摘してみたいのは、それが何らかの目的と結びついているということです。必要といわれるものは何かのために必要なのであって、必要が言われる時には常に目的が想定されている。目的とは、それの「ために」と言い得る何かを指しています。必要であるものは何かのために必要であるのだから、その意味で、必要の概念は目的の概念と切り離せません。」
「現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつあるのではないか————これが今日の話で皆さんと共有したいと思っている問題です。消費社会の論理は二一世紀になった現在でも支配的であるけれども、他方で、すべてを目的に還元する論理がそれと共犯関係を結んでこの社会を覆いつつあるのではないか。」
「不要不急と名指しされたものを排除するのを厭わない。必要を超え出ること、目的をはみ出るものを許さない。あらゆることを何かのために行い、何かのためではに行為を認めない。あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない。————いま僕が描き出そうとしている社会の傾向ないし論理とはこのようなものです。ここでは目的の概念が決定的に重要な役割を来していることが分かります。では目的とは何でしょうか。(・・・)
アーレントこそが、目的の概念を徹底的に思考した哲学者の一人に他なりません。まずは彼女の哲学的主著とも言うべき『人間の条件』がこの概念について述べているところを見てみましょう。
目的として定められたある事柄を追求するためには。効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき効果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう(アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年、三五九〜三六〇ページ)
(・・・)一読して気づくのは、目的が手段と合わせて論じられているということです。」
「アーレントによれば、「必ずしもすべての手段が許されるわけではない」などという限定条件にはほとんど意味がありません(同書、三六〇ページ)。そんあ限定条件を付けたところで、目的を立てたならば人間はその目的による手段の正当化に至るほかない。なぜならアーレントによれば、手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならないからです。
目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである(同書、三六〇ページ)。
非常に印象的で鋭利な言葉です。目的はしばしば手段を正当化してしまうことがあるのではない。目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。アーレントはそう指摘しているわけです。何らかの強い道徳的信念をもった人物が、「どんな手段も認められるわけではない」と考えて、目的による手段の正当化を回避することは確かに起こりうるでしょう。しかし、この事態を回避するためになぜ強い道徳的信念が必要であるかと言えば、そもそも目的という概念に、手段の正当化という要素が含まれているからです。それはアーレントによる目的の概念の定義が言わんとしていることであり、この定義は事柄の本質そのものを捉える、すぐれて哲学的な定義だということができます。目的の本質とは手段の正当化にある。そしてアーレントはこの本質から眼を背けない。哲学者だからです。
目的のために効果的であるならばあらゆる手段が許されるという考えを追求していくと、最後には「恐るべき結果」が訪れるとアーレントは述べていました。」
「もしかしたらコロナ危機において実現されつつある状態とは、もともと現代社会に内在していて、しかも支配的になりつつあった傾向が実現した状態ではないでしょうか。不要不急と名指しされた活動は、コロナ危機だから制限されただけでなく。そもそもそれを制限しようとする傾向が現代社会のなかにあったのではないでしょうか。そしてその傾向は、必要を超えたり、目的からはみ出たりすることを戒める消費社会あるいは資本の論理によってもたらされたのではないでしょうか。人が必要を超えたり、目的からはみ出したりして何らの贅沢を手に入れようとすれば、すぐさまそれを止めようとする、そのような戦略のもとでこの論理は作動し、何としてでも人々を消費の中に留め置こうとしているのではないでしょうか。」
「アーレントにおける自由の概念を参照する必要があります。自由の概念は彼女の著作全編にわたって現れるのですが、ここではそれをタイトルに掲げ、この概念に真正面から取り組んでいる論文を参照することにしましょう。
行為は、自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない。行為の一つ一つの局面において動機づけや目的が重要な要因でないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因であるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由なのである。(アーレント「自由とは何か」『過去と未来の間————政治思想への8試論』引田隆也+齋藤純一訳、みすず書房、一九九四年、二〇四ページ)。
自由の概念を正面から定義しているこの箇所は、ここまでお話してきた目的の概念を理解する上でも決定的に重要です。この一節から分かるように、アーレントによる目的の概念に対する批判は、その自由の概念と切り離せないからです。」
「先ほどの引用部分では、自由に並んで、行為にとっての「動機づけ」「意図された目標」「目的」といった「要因」が言及されています。ここでは「目的」でこれらの要因を代表させることにしまそう。アーレントが言っているのは、行為にとって目的が重要な要因であることは間違いないが、しかし行為は目的を超越する限りで自由なのだということです。アーレントは目的の概念を徹底して批判的に考察していました。しかし、だからといって目的を抹消せよということではない。目的が行為する上で重要な役割を果たすことは間違いないのです。
けれども、そうした要因に規定されたまま行為するに留まっていたとしたら、その行為は自由ではない。つまり、「こういう動機でやっています」とか「こういう目標を達成するためにやっています」としか言えない行為は自由ではない。」
「ここで一つの言葉を導入したいと思います。目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動、それは一言で言うと「遊び」ではないでしょうか。
「「遊び」という日本語が持つ「ゆとり」という意味にも注意を促しておきたいと思います。「ハンドルの遊び」のような言い回しで、この語は、機械の連結部分がぴったりと付いていないでゆとりを持っていることを意味します。これは必要を超え出て、目的をはみ出る贅沢の経験を思い起こさせます。遊びは目的に従属する行為、哲学的な用語で硬く言えば、合目的的な活動から逃れるものに他なりません。そして、合目的性を逃れることは少しも不真面目であることを意味しません。遊びは真剣に行われるものでありし、ゆとりとしての遊びは活動がうまく行われるために欠かせないものです。」
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