佐々木中『万人のための哲学入門 この死を謳歌する』/池田晶子『死とは何か』/シュタイナー『死について』
☆mediopos3657(2024.11.23.)
佐々木中『万人のための哲学入門』には
帯に「最初で、最後で、最短の一冊」
そして「本当に読みたかった哲学入門、誕生」
という言葉が大きく記されていて
副題が「この死を謳歌する」となっている
どのように「死」を「謳歌」するのかといえば
「藝術」によって
「死なねばならない」という
「定めを笑うことを学ぶことができる。
この定めを悲劇ではなく喜劇とすることができる。
そこから、陽気に、快活に、哄笑しつつ
この定めを生き抜くことができるようになるかもしれない。」
ということが結論のようだ
その前提となっているのが
ひとは生まれてくることを選ぶことができず
「生まれてきた以上は死ななければならない」
そしてやがて「われわれのことを覚えている人は
誰一人いない」ことになるということ
ある意味でそうした恐れを克服し
それを生き抜く手段として「藝術」が位置づけられている
たしかに「万人」というか多くの場合
生まれてきた不条理と死んでいく不条理のあいだを
悲劇としてではなく喜劇として生きられれば
「死を謳歌する」ことにもなるのだろうが
「哲学」としては恐れは超えられなくても
「藝術」ならば超えられる・・・というのはどうなのだろう
そうした狭義の「哲学」でなくても
またそこから「宗教」へと飛躍しなくても
別の視点から「死」について考えていくこともできる
それは上記のようないわば常識化されている
生まれてくることを選ぶことはできず
死ぬことを恐れて生きなければならない
という前提を問い直すということである
まず生まれてくることを選べないというのは
いまの「私」の現在の意識の範囲内では
という条件下における視点である
また死ぬことを恐れなくても生きてはいける
とくにそれを「藝術」で「謳歌」できないとしても
「死」への視点を深めるだけで
「死」への態度は明らかに変わってくるのではないか
道元のように身心脱落脱落身心のように
生死をつらぬいた視点も「哲学」を超えて可能だろうし
以前「死」については
池田晶子『死とは何か』
シュタイナー『死について』といった
死をテーマとしたものをとりあげたことがあるので
そこからもいくつか視点を引いておきたい
池田晶子は
現象としては死というものは存在していないという
死体と死とは違うものだからだ
論理としては
「一人称の死は自分では経験できない」
「二人称の死というものは存在しないし、
二人称の人はいつまでも生きている、
という言い方も可能」だという
そして一般的な「三人称の死」は「死体」である
生死が存在するのは「言葉」としてである
生きているものは現象としては必ず死ぬが
一人称の私は死なない
そうした矛盾した「現象と論理のはざまで」
わたしたちは生きているというのである
死を肉体の死としてとらえず
「私」は「死」を経験できない
というのはたしかであって
肉体の死後も
「私」に「死」はないのかもしれないのだから
シュタイナーは
そうした「哲学」としての「死」ではなく
神秘学における「死」の視点から
いわゆる「死」とされるものは肉体の死であって
魂は転生していくととらえている
そして「死後のことなら、死後学べばいい」のではなく
死後のことも生きているうちに学ばなければ
死後学ぶことはできなくなる
死後においてわたしたちは
生前に学んだことを霊界に持ち込み
そのもとで生きることになるというのである
どのように「死」をとらえるかは
視点によってさまざまであり
死を恐れながらも死を謳歌することもできれば
「死は存在しない」とすることもでき
死後の生と転生という視点のもとで
現在の生においてさまざまなものを学ぶ
ととらえることもできる
「万人のため」という前提からすれば
現在の私たちの多くがとっている「常識」の範囲で
死ぬという恐れの前でなんとか肯定的に
死をとらえようとすることしかできないが
人間の認識が通常の常識を超えて
拡張可能であるとすれば
「死」をそれまでとは
異なったものとしてとらえることもできる
そのとき「死者」との関係もまた
あらたなものにすることができるだろうし
おそらくそうした視点がなければ
現在の「生」をとらえることもできないかもしれない
■佐々木中『万人のための哲学入門/この死を謳歌する』(草思社 2024/11)
■池田晶子『死とは何か/さて死んだのは誰なのか』(毎日新聞社 2009/4)
■シュタイナー(高橋巌訳)『死について』(春秋社 2011/8)
**(佐々木中『万人のための哲学入門』〜「序」より)
*「私はあなたのことを何も知らない。ですが、一つあなたのことを当てて見せましょう。どんなにあなたが隠そうとしても、あなたのことを一つだけ確実に当てられる。そのことを私は知っています。
それは、あなたが死ぬということです。
さて、私たちの哲学入門は、ここから始まります。」
**(佐々木中『万人のための哲学入門』〜「「救済」と「記憶」の問題」より)
*「あなたは死ぬ。そして私も死にます。人間は生まれてくることを選べません。それなのに、生まれてきた以上は死ななければならないのです。こんな理不尽なことがあるでしょうか。」
自分が生まれてくる前に、「生まれますか?」「生まれていいですか?」と聞かれて、イエスと答えて生まれて来た人は誰もいない。さらに、どこに、どの時代に、誰を親として生まれるかすえら全く選べない。そしてまた、人間というものは不思議なもので、死んだこともないくせに死ぬのは怖いわけです。何も許可した覚えはない、同意した覚えはないのに産み落とされ、生まれてきて、そして生きている以上はいつか死なねばならない。そして、————百年か千年かすれば、われわれのことを覚えている人は誰一人いないのです。
ただ、われわれには藝術があり、そこでこの定めを笑うことを学ぶことができる。この定めを悲劇ではなく喜劇とすることができる。そこから、陽気に、快活に、哄笑しつつこの定めを生き抜くことができるようになるかもしれないのです。
藝術こそが、「遙か彼方で瞬いている燈火」(アーストロフ)なのです。
以上です。哲学入門はこれで終わりです。ここからは藝術の問題です。」
**(池田晶子『死とは何か』
〜「死とはなにか————現象と論理のはざまで 一、現象としての死」より)
*「まず、現象としての死、ということを考えてみます。」
「たとえば、死はどこに存在しているか、と問うてみましょう。そうすると、死体を見ても、そのどこにも、死というものは存在していないのです。停止した心臓は停止した心臓ですし、呼吸が止まったというだけのことですし、脳も同じです。やがて骨になっていくという過程はその過程であって、死そのものではありません。たとえば、死を見せてみて、と問うても、これは見せられない。つまり、死体は、見えるものとしてそこに存在していますが、死そのものは、死体から死を取り出そうとしても取り出せるものではないのです。
その意味で、死は存在していない。死体と死は違うものなんですね。死体の中に死は無い。ここは非常に間違えやすいところです。脳死問題でもめるのは当然です。なぜかというと、存在していない死というもの、つまり、無いものを決めようとしているからです。在るものは決められますけれども、無いものは決められませんね。だからこそ一方で、死を決めようとする動きが、我々のなかに起こってくるわけですから。」
**(池田晶子『死とは何か』
〜「死とはなにか————現象と論理のはざまで 二、論理としての死」より)
*「さきほどの現象としての死に対して、論理としての死ということを考えてみます。これは、哲学的な死と言ってもいいのですけれども、つまり、それが何であるのかとうことを考えることによる死というものです。」
「これは有名な分類ですが。まず、一人称の死というのがあります。これはよく考えると確かに誰にでもわかりますけれども、経験できないものです。一人称の死は自分では経験できない。当然ですね。(・・・)つまり、死が存在するときに私は存在していないし、私が存在するときには死は存在していない。」
「次に、二人称の死を考えてみます。二人称というのは親しい人の死、知っている人の死です。たとえば、親しい人が道端で死んでいればとりすがって泣きます。三人称の知らない人にはあまりそういうことはしません。二人称と三人称の間では、まったく違う心の動きがあります。あるいは、二人称の知っていると、身内とか、そういう人の死は、死体がなければ生きていると、どうしても私たちは思ってしまいます。だからいつまでも捜しに言ったり、ずっと待っていたりするわけです・あるいは。記憶のうちで語りかけたりとか、いつまでもするのです。死んでいるはずなのに、その意味では死んでいないのです。(・・・)ですから。ある意味で二人称の死というものは存在しないし、二人称の人はいつまでも生きている、という言い方も可能なんです。
で、三人称の死。これがさっき言った、いちばん一般的な死であって、現象的な死という意味ですけれども、死体として存在しています。一般的な死です。これは誰それさんが死んだという言い方で、我々は納得しています。」
「自分が死というものを全くわかっていないということを、わからないままに、我々が生きるの死ぬのと平気で言っているのは、日常に存在する死体、つまり、動いていないものと定義していいと思いますけれども、死体を見て、それを死と呼んでいる。動いているものを、生きている人を見て、生と呼んでいる。呼び名としてそうなっているだけだということがわかります。
つまり、これは非常に唐突に聞こえると思うのですけれども、言葉です。生死というのは、じつは言葉なんです。言葉がなければ生死は存在しないのです。なぜならば、考えていくと、生死の境目はどこにもない。そういう境目のない現象を言葉が分けているからです。死がなければ死と言うことはできません。生がなければ死と言うこともできません。だから生死は言葉なのです。
ただ、言葉にすぎないかというと、(・・・)言葉にすぎないということでは決してない。なぜならば、現に私たちは死ぬからです。現実に毎日死んでいます。だから言葉にすぎないということは、じつはないのです。だけれども、その死とは何かをこんなふうに考えてくると、生死というのは確かに言葉になってしまうのです。」
**(池田晶子『死とは何か』
〜「死とはなにか————現象と論理のはざまで 三、現象と論理のはざまの我々」より)
*「現象的には、生きているものは必ず死ぬということですし、論理的には、一人称の私は死なないということです。この矛盾ですね。だけれども、我々は現実に、というのはこの場合。論理的にと言っても同じですけれども、この現象と論理のはざまで生きているわけです。」
**(シュタイナー『死について』〜「大切な人の死」より)
*「地上に残された人は喪失感を持ちつづけなければなりません。抽象的な言い方をすれば、その人は予期せぬときに大切な人を非常から喪ってしまいました。(・・・)肉体を持つことで一緒に行ってきた体験に、悲しみ、苦しみが加わります。そうすると、肉体を通して結びついていた関係を変化させるような働きが生じます。なぜなら肉体を通して互いに向きあう日常生活の中で互いに共有してきた体験内容が、つらい喪失感を通して、カルマの流れに、進化の流れに日々付け加えられるからです。大切な人を失ったことによるすべての感情が、この世での経験に付け加えられます。」
「霊界へ赴いた人の観点は違います。その人は、霊界に赴いたからといって、地上に残した人と一緒にでなくなったとは思っていません。霊界にいる人の側から言うと、地上に残された人の魂との意識的な共有が、地上の体験よりもはるかに集中した、内密なものであり続けているのです。
そのとき非常にしばしば、より内密なこの関係が。この地上界で作られた相互関係の輪を更に補充してくれるのです。」
「死の門を通った人は。まだ地上に留まっている身近な魂たちと、思いを共有することができます。身近な魂たちの思いの中に入り、浸透することによって、カルマを基礎にしたこの世での関係を深化させることができるのです。もしもその人は死の門を通っていかなかったなら。地上の生活状況の中では、そういう深化を生じさせることができなかったでしょう。人間関係を正しく成就させるためには、この世の人は地上で苦悩に耐え、あの世の人はあとに残された人たちの思いと共にいることが必要なのです。」
**(シュタイナー『死について』〜「感覚の変容」より)
*「「この地上で、死後の生活についてのイメージを持とうとするときの私たちは、死と向きあって、一種の激しい不安に襲われます。」
「しかし、そういう不安の感情は、実は魂の深層にいつでも存在しているのです。ただ、注意が物質界に向けられているので、知覚されずにいるのです。今、そういう感情がこうささやくのです。————住みなれた、いつもの世界がすべてなくなってしまったら、お前はどうするのか。」
そういう感情が私たちの無意識の中にいつでも生きています。その時にはもはや見ることも聞くこともできません。なぜなら感覚の対象がすべて奪われてしまうのですから。思考するこよさえもかなわないのです。」
「しかしそういう状態が続いているだけでは。死と正しく向きあうことができません。死の謎を覆うヴェールをかかげることができないのです。」
*「死後の私たちは、先ず最初に、感覚のより利己的な部分をしっかりと保っています。このことから分かるように。人間は死後ただちに、本当に利己的な状態になるのです。
子どもは自分の感覚をこの世の人生の中に持ち込み、それによって物質界。感覚界に順応していかなければならないように、死によって身体から抜け出た死者は、自分の感覚で超感覚的世界に順応していかなければなりません。
この状態は死後かなり長く続きます。そして新しい仕方で感覚を使うのに慣れるまでの間、生前、この世で過ごしたときのことを思い出として保っています。けれどもその思い出は、思い出のあまり好ましくない部分なのです。
死後の思い出は、数日間しか続きません。その時の思い出は、いわゆる『記憶の絵画』となって現れます。次いでこの思い出は、そのもっとも内的な部分が内部から生じてきます。生前この世で体験してきたすべてを、内的に体験し直すのです。なぜなら、新たに知覚する可能性は失われているのですから。」
*「超感覚的世界の場合、どんなに研究を続けても、そこに死を見い出すことはできません。事柄の本質を洞察する人にとって、超感覚的世界の中に死が存在するなどと思うことはナンセンスでしかありません。眠っている時のような意識状態もありますし、死への憧れも存在します。地上の私たちが人生を理解しようとするときのようにです。けれども超感覚的世界には、死は存在しないのです。」
「問題は、物質的=感覚的世界を知覚できない、ということなのです。自分自身のことは分かっても、他の存在たちのことは何も分からないのです。このことが「萌える欲望」の段階の苦悩なのです。」
*「神秘学は天上では学べません。地上で学ぶことなのです。人びとが地上にいるのは、「嘆きの谷」を知るためだけではなく。神秘学を学ぶためでもあるのです。死後のことなら、死後学べばいい、と思われがちですが、これは大きな間違いです。
人は、地上で学んだことを、死の門を通ったあと。霊界に差し出さなければならなのです。」