人生の踏み台。
時々自分から『踏み台にされた』と、発言している人が居る。
今日は人生の踏み台についての考察をしておきたい。
一言だけ言わせてもらう。
自分で言う人はもうドン引きモンである。
このセリフは自分で言えば言う程にみっともない行為になってしまうのだ。
冷静に考えて他人の事を棚に上げて自己主張してるって事なら、相当みっともない気がするのだ。
例え踏み台にされて、その人が飛躍したなら、なぜそれを喜びにできないのだろうか非常に気になるのだ。
だって自分のおかげで成長ができたのに、自分が成長が停滞してるのを認めたくないが為に踏み台にされたって自分で言うのはナシだろう。
恥ずかしい・みっともない・キショイ。
三位一体の黄金比が成立しているので、思っても言っちゃいけないワードなのだ。
そもそもこの思考にならない。
この思考になる人は大概自分自身に『踏まれる台すら存在していない』事に気付くべきである。
むしろその土は凹んでいるのだ。
土台すらないからこそ、他人に対して捨て台詞のような言葉を吐いてしまうのだ。
土台さえあれば、何があろうともそのような言葉は出て来ないのだ。
言葉には人間の本質が出る。
だからこそ、人生は踏み台よりも土台を作り続ける方が大切だと感じるのだ。
踏み台と感じる時点で自分の中の時間が止まり、過去の栄光にすがり、執着をしているだけに過ぎないのだ。
通り過ぎた過去にいつまでもしがみついていては、進む事も無ければ、始まる事も無い。
まさに無限地獄の世である。
墓穴を掘ると言う言葉があるように、自分で墓の穴を掘り、自分で墓に入って行くようなものなのだ。
更に凹みを増やしている状態になってしまうのだ。
麦は寒い冬に芽を出だして、育つにあたって人の足に踏まれながら大きくなって、穂を実らせる。
『実るほど頭を垂れる稲穂かな』
稲穂や麦のように強くコシのあるうどんや蕎麦のようになりたいものである。
そして人間を見る上で見逃してはならない事がある。
ピンチを迎えた時の所作である。
この所作が美しくない人間は、本質が出た時に距離を置くか決めた方が良い。
他者に冷たく接してしまったり、攻撃をしたりする人は論外である。
日々の暮らしの中で、確かに聖人君主のように生きる事は困難な事だろう。
勿論こんな事言ってる自分だって100%なれる訳がないし1%にも満たない。
だけど、自分の中で他者の言葉から違和感を感じた時、それを無意識に違和感を相手に対して与えないように意識をするようにしている。
それでも失礼があったり迷惑が掛かるのは当然である。
良かれと思っても理解されないし、同じ良かれが他の人には通じたりする。
だから別に全ての人から理解されて愛される必要は無いのだ。
最近思うのは、他者に対してリスペクトがある人は人徳があり、一緒に居て心地よいし、素晴らしい人だと感じるのだ。
自分の周りを見たらすぐに分かる。
周囲の人間関係は恐らく自分を映し出す鏡である事は間違い無い。
そして、周りの人間がどんな言動をしているかを考えた方が良いのだ。
地獄と捉えるか、天国と捉えるかは人それぞれだが、この世の仕組みはあの世の仕組みとほぼ変わらないのかもしれないと考える。
死後の世界が見えるかと言えば、死んだ事が無いので分からない。
しかし、生き地獄という言葉があるように、自分で蒔いた種の結果が今この瞬間の連続でしかない気がするのだ。
ディスピアな気がするが、誰かが決めたチェスの駒程度でしかないのかもしれない。
しかし、例え人生の地図が人それぞれに行先と着地点が決まっていようとも本人は目先の事は分からないのだ。
だからこそ他人に時間を使う程に時間の無駄は無い。
もう既に分かってると思うが、罵詈雑言を丁寧な口調で言いながら、猫の写真で緩和させているだけである。
自分はすごい存在だと思う事は人の勝手だからどうでも良いが、本当にどうでも良いから結果的に何がしたいんだろうって気持ちになる。
頑張って居る事は百歩譲って凄いとは思う。
しかし、どれだけそんな言葉を発しようとも、いや、発すれば発する程にどうでも良い気持ちになって興味すらなくなるのだ。
だから、それは自分から発してはならないと感じるのだ。
『自分が居なければこの会社は成立しない。』
このような事を言う人も居るのだ。
蓋を開ければ、ただ自分が抱え込み共有をしなかっただけの事である。
その言葉は残念ながら一切通用しない。
1人居なくても会社は回ってしまうのだ。
逆に頑張りすぎて仕事をしている人は、この感覚で考えた方が良い。
自営業の場合は勿論違うが、仕事は所詮稼ぎの手段である。
プライドが高くて、責任感があり、無駄な努力を美学としてしまっている人はきっとこの思考になってしまうのかもしれない。
勿論本人が良ければ良いのだが、大概他人を巻き込もうとする。
そして、他人を蹴落とそうとするのだ。
その後の答えなんて見えているはずなのになぜかやるのは、自分を見て居ないからだろう。
この際、まず自分が始めた事がある。
自分を卑下する事無く最下層に置く事。
で、ある。
承認欲求を抑えると言うか操作するイメージである。
何度かコラムで書いて居るが、承認欲求と言うのは生きる上では必要だし、持ちすぎれば毒ともなる非常に扱いが難しいものなのだ。
持たない事は発展には繋がらないだろう。
飲み込まれてしまえば、見境が無い。
自分が一番で居たいのであれば、まずは背中を見せて生きなければ、その生き様が見える事は無い。
背中で語るとはまさにこの事である。
生き様を見せて生きて居れば、踏み台にされる事も無ければ、そうも感じ無いだろう。
仮にもしも踏み台と考えたのであれば、同じ道を歩いて居る事になってしまうのだ。
他人が歩いて居る道と同じ道を歩くなら、異なる方が良いと思う。
だからこそ、気にしないで良いと感じるのだ。
ONE'S TRUTH - Skål
全然コラムの内容と違うが、この曲は最高に感動するし大好きな一曲である。
世界中に広まってほしいぜ!!