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闘病体験記~この身体で生きる~#1《眼病編1-1》

■平穏の終わり

今から21年前。2000年の夏。僕は当時中学3年生で高校入試の受験勉強に励んでいた。
学校では天文部の部長を務め、委員会での仕事なども兼任していた。だが特段星座や天体観測が好きなわけではなかった。それらは内申書のために元々2年まで所属していた美術部を辞め、進学に有利に働くためと打算的に考えてのことだった。
元々成績は中の中、(いや限りなく下に近かったが)良い塾の先生との出会いもあって夏期講習で成績が上がり、この頃は勉強に対するモチベーションが最高潮だった。夏休みの以後なお力が入り、進路へ向かって前途洋々たる気持ちであった。

ところで僕には希望する進路先のは二つあった。
一つは親や周囲に勧められた県内の大学でそれに有利な近所の高校。もう一つ美術学科のある私立高校に進み、将来は美大か美術専門学校へ進学できたらと考えていたが、親には反対されていた。密かに漫画家かイラストレーターになりたいとも考えていた。
一人っ子で両親も共働きだったからか、いつのまにか絵を描くことが日課になっていた。友達と遊ぶのも楽しかったが、自分と対話する唯一の手段は絵を描くことだけだった。
それでも絵は別の高校や大学に行っても描けると言い聞かせ、周囲の勧める進路に疑問すら持たず納得していた所があった。

分かってる、絵なんていつでも描きたい時に描けるのだから。どうせそんなもの、趣味に過ぎないものだし、多くの人は夢があるばかりに道を踏み外してしまうものだ。僕は堅実に生きた方が賢いと思っていた。

■異変

片目に異変が起きたのは9月末頃だった。世間では有名コメディアンで元歌手で耳にタコができたあの方が盗撮で捕まって賑わっていた頃だ。
どうも白い光を見ると眩しく感じる。白く靄が掛かったように見える。最初は疲れ目くらいだろうと思って放置し、市販の目薬をつけて数日間は凌いでいた。
だが次第に光が眩しく感じるようになり、両目にも靄掛かるようになる。
決定的だったのは体育の授業で外でサッカーをしていた時、キーパーとしてボールを受けようと、ふと空を見た時、直射日光が酷く目に染みた。
咄嗟に目を逸らしたことでボールが顔面に当たり、保健室に行くことになった。そこで付き添いの友達から両目が赤いことを指摘される。ボールが当たったのは顎から胸にかけてだ。目には当たっていない。
僕は元々近視が酷く小学校の頃から眼鏡をかけており、この目の異変も、この時まで度が合わなくなったから位にしか思っていなかった。
保健室の鏡で確認すると両方の白目がワインのような赤みで血走っているのが分かった。そればかりか、天井の照明の周りに虹色の輪が見えるようになり、光を見る度に目の奥が痛みが走った。これはただ事ではない。
体育は5時間目だったが僕は早退し、その日の夕方両親と地元の眼科クリニックへ受診した。


■ようこそ眼科の暗い診察室へ

受付で問診票を書いて暫く待つと検査室に呼ばれた。
最初にオートレフケラトメーター(草原の気球を見るやつです)で他覚的屈折値と角膜曲率半径を測定し、眼圧測定器(風を当てるあれです)で眼圧=眼球の硬度=を測り、それから視力検査をした。眼科ではお決まりの検査項目だ。
眼圧を測ってすぐ、検査技師をはじめ周囲が慌ただしくなった。何人か僕より先に待っている患者がいたが、次の次位に呼ばれた。
どこか覇気のない医師の「入谷さん…」と名前を呼ぶ声と共に、看護師によってカーテンが開けられると、僕はその暗く陰気な診察室の雰囲気に吸い込まれそうな感覚と眩暈を覚えた。
そう、これから何度も、幾度もここへ来なければらならないと不吉な予感がしたからだ。
暗室の診察用検査機器を隔てて座る、朴訥とした初老のA医師はやや苛立って、呆然とする僕の名前をもう一度強めに呼んで診察台に椅子に座るように促した。
A医師は僕から症状を聞くでもなく、すぐさま顕微鏡で眼球内部を診察し、それから医師直々に再び眼圧を測った。医師が直接測る眼圧は風ではなく、黄色の麻酔点眼薬を点眼し、眼球に直接青色ライトのレンズを眼球に当て込んで測るというものだ。
麻酔が効いているので痛くなかった。A医師はもう一度顕微鏡で目の中を診たりしながら、カルテを書き終わると、ゆっくりと説明を始めた。
その場には母親も同席していたが、せっかちなは母親は「どうなんでしょうか?」と食い気味に訊いた。
診断の結果、ぶどう膜炎の発症によって眼圧の急激な上昇を来したとのことだが、眼球そのものが原因でないことが多いらしく、A医師はジェスチャーで手をぐるりと回しながら免疫疾患を含めた全身症状の可能性があると説明した。それを調べなければならず、紹介状を書くので大きな病院へ行くように言われた。母親はそれが脳から来ていると勘違いしたのか青ざめて絶句していた。
通常眼圧の正常値は10~20mmHgに対して、この時の眼圧は両眼で40~45mmHg前後、場合によっては数日で視神経がダメになり視野狭窄あるいは失明に至ることもあるという。
眼圧とは眼球内部の圧力で目の硬さを示す数値。ぶどう膜とは、眼球内部の二層あたりにある、手前から虹彩、毛様体、ぐるりと周囲を包む脈絡膜の総称である。眼球内部では絶えず房水と呼ばれる液体が生成されていて、炎症が起きて排出経路が詰まって流れが悪くなったり、閉じたりすると、眼球の圧力が上がって内部に濁りが生じて白い靄や眩しさ、酷くなると痛みを感じるようになり、放置すると視野狭窄や失明に至る。
遊離感に見舞われ、ぼんやりA医師の説明を聞いていたが、突然突き上げるような焦りや不安に襲われてA医師を遮ってしまった。
そこで咄嗟にした質問は絵のことだった。
自分は将来絵を描くことを仕事にしたいと思っている、この状況でそれを目指しても大丈夫ですか?みたいなことを聞いたと思う。これが僕とA医師との初めての会話だったような気がする。
不思議だ、中3の秋と言えば受験の追い込みだ。受験で本来なら心配すべきは勉強のことなのにも関わらず、気が付いたら絵のことを聞いていたのだ。
A医師は暫く考えた後、ぶどう膜炎は治っても繰り返し再発する病気だから目の負担になることは望ましくない、それを考えたら絵なんて止めた方が良いね、と淡々と答えた。
その瞬間自分の描いていた未来がガラガラと崩れたような気がした。
絶望した。
ショックだった。
ショックのあまりその後のことはあまり良く覚えていない。
ほとんど放心状態で、処方された抗炎症点眼薬、眼圧を下げる数種類の点眼薬の説明も虚ろで、会計時に紹介状を貰い、薬局で薬を受け取ったと時も白くぼやけた視界で一点を見つめるばかりだった。

そしてこれから僕は自分に用意された不幸な宿命を生きることとなった。
眼病の長い長い戦いと、絵を描くことに対する呪縛と苦悩の日々が、これから始まっていくのだ―――。


ここまで読んで下さりありがとうございます。良ければ、『闘病体験記~この身体で生きる~#2《眼病編1-2》』へ続きます。


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