シェア
緑の細い茎を水中に浸し、ハサミを持つ手に力を入れる。わずかな抵抗は一瞬で崩れ先端からニセンチほどが皿の底に落ちた。声を出さずに三秒数える間、斜めの切り口が水を吸い上げる様を想像する。 茎から花びらのように見える青色のガクへ。手まりのようなアジサイの、花だと思っていた部分は装飾花と呼ぶのだといつもの花屋さんが教えてくれた。本物よりもお飾りのほうが華やかだなんて。やがて水は、ガクの中心に慎ましやかに置かれた小さな花に届く。 しばらくすれば、空梅雨で乾いた天気に弱ってしまっ
(はじめに) 当小説は、2007年に書いたもので、当時とあるお笑い芸人にドはまりしていた自分の母親をモチーフにしています。 なお、設定などは全て当時のままにしております。 本編 もう二度と恋心など、胸に宿ることはないと思っていた。 異性の姿を追い求め、見つけてはうっとりと眺めることなど、もう自分には有り得ないと思っていた。 あの彼に出会うまでは。 暦の上ではまだ春なのに、予想気温が初夏と同じくらいだと朝の天気予報が伝えていた。午前中のうちに食材の買い物を済
2月14日だというのに、家の前にはまだ節分の鬼がウロウロしている。 不審者なら警察に通報すればよいのだが、相手が鬼だとそうもいかない。 というのも、法律の適用外なので、警察も退去を命じたり逮捕したり出来ないのだそうだ。 どうしたものか。 私はときおり鬼がよそ見をしているタイミングを見計らって、ベランダから豆を投げた。 すると何度か鬼に命中したものの、彼がここから立ち去ることはなかった。 不思議に思いインターネットで調べてみると、過去に同様の悩みを抱えていた人の書き込みがあっ
凄腕のマジシャンがいた。シルクハットからウサギを出すとか、アシスタントの体を真っ二つにするとか、そういうありきたりなものは当然のことながらお手の物。高層ビルを消して見せたり、橋を消す。タキシードの懐から象を出す。金魚をクジラに変えて見せる。そのスケールは桁外れ、他の同業者たちは自分の影が薄くなると結託し、殺し屋を雇ってそのマジシャンを抹殺しようとしたが、その殺し屋はマジシャンの手で猫に変えられ、その殺し屋を雇った同業者たちはハツカネズミに変えられたという話がまことしやかに流
"僕が孤独だと感じるなら、 きっとこの星も孤独だと感じるのだろう。" 目の前には宝石の欠片のような小さな星が、壮大な暗黒の闇にまぶされたように散らばっている。 温度も何も無い、ゴツゴツした地面にほっぺたをつけて今日も君の声を聞こうとする。 「何も…分からないね。」 どうして僕はこの場所にいるのか、何も分からない。ただ一つだけ分かるとするなら、このどこまでも続く真っ暗な空間の中で存在する僕と君のことだけ。 君は大きくまあるい球体で、僕をただ乗せている。 僕は
その名前を見つけたのは、ようやくガラケーからスマートフォンに移行して四苦八苦しながら色々なアプリをダウンロードしていた最中だった。 ラインをいれてから友だちに表示されたうちの一つ。専門学校生だったときのアルバイト先にいた人。大好きだった文香先輩だ。 「ビビンバ丼には温玉のせなきゃ! 何度間違えたら分かるの!」 パートのおばさんの怖い方である井上さんはただでさえ角度のある眉毛を更につり上げていた。 「すみません、もう少々お待ちください」 井上さんではなくカウンター向こ
目の前に座る老人が言葉を発する。 ぽっかりと空いた虚(うろ)のように大きく口を開け、喉を震わせて空気を振動させた、はずだった。 「――――。」 しかし老人の目の前に座っているにも関わらず、鳥越には発されたはずの言葉は全く聞き取れなかった。 最初は聞き間違いかと思った。老人が発した言葉を、たまたま聞き取ることが出来なかったのだと。 「ええと、すいません先生、いまなんと仰られたのでしょうか?」 鳥越は恥を忍んで問いかける。随分と畏まって、恐る恐る、といった様子だ。それはそ