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短編小説『カウンター越しの先輩』

 その名前を見つけたのは、ようやくガラケーからスマートフォンに移行して四苦八苦しながら色々なアプリをダウンロードしていた最中だった。
 ラインをいれてから友だちに表示されたうちの一つ。専門学校生だったときのアルバイト先にいた人。大好きだった文香先輩だ。

「ビビンバ丼には温玉のせなきゃ! 何度間違えたら分かるの!」
 パートのおばさんの怖い方である井上さんはただでさえ角度のある眉毛を更につり上げていた。
「すみません、もう少々お待ちください」
 井上さんではなくカウンター向こうにいるお客さんの方に向かって謝ってから、温玉を取りに材料が並んでいるテーブルへと急ぎ足で向かった。しかしうまく割れずに殻が入り、ますます焦ってしまう。
 私はちゃんとお客さんに渡す直前に気が付いていた。だから手も止めたのに。むしろそれで中を井上さんにのぞきこまれてしまったのだろう。
「分かってます」と言ってやりたかった。でも迫力のあるおばさんに口答えができるほど私は気が強くない。それに私のことをできない子だと決めつけている井上さんには何を言っても無駄だろう。
 通っている専門学校と住んでいるアパートのちょうど真ん中くらいにある食堂でアルバイトを始めたのは一か月前のことだった。客として入ったことはないお店であったが、どこかでアルバイトを始めたいと思っていたときにタイミングよく募集のチラシが張ってあるのを見つけたのだ。
 おいしいものをゆっくり食べてもらうなんて場所ではなく、いかに回転がいいかを軸にしたこの店は、料理の元になる材料は熟練のパートのおばさんが、レトルトの解凍や盛り付けはバイトが担当する。お客さんはカウンターで受け取った料理を少し離れたレジで会計するという学校や温泉施設の食堂みたいな店である。お昼は会社員、夜は学生の利用が多い。
 店長の気まぐれで季節のメニューなんかが追加されるときもあるが、ほとんどが同じ材料で出来上がる料理である。ハンバーグは組み合わせ次第でカルボバーグにも和風おろしハンバーグにもデミグラスハンバーグにもカレーハンバーグにもなる。マニュアル通りに盛り付けていけば料理が完成するというこの作業は、手先が不器用な私にも料理をしたという達成感をもたせてくれてこれ自体は好きなのだが、なにせ種類が多い。
 井上さんに怒られたビビンバ丼は最近追加されたものであり、ナムルをきれいに盛り付けられるとそれで満足してしまって仕上げの温玉を忘れることがしばしばあった。確かにこれは私の完全なミスであるしお客さんにも迷惑のかかることである。しかし最後まで気が付かないままであった、という失敗はしたことがない。いつも直前、またはお客さんがレジに向かっている途中で気が付いて誠心誠意謝っているし、お客さんだって許してくれる。それに今日は言われる前に気が付いていたのだ。あそこまで怒鳴られると身体が縮こまり今度は別のミスをしてしまいそうになる。注意をするならもう少し柔らかい言い方をしてほしい。
 その日はいやな気持ちを引きずったままアルバイトが終わった。しかし心待ちにしているのはこれからの時間だ。文香先輩と並んで歩く帰り道。
 今日の出来事を話すと文香先輩は大きな瞳をパチパチと瞬きさせながら私を慰めてくれた。瞬きのたびに黒くて濃い睫毛から星の欠片が放たれて夜空に吸い込まれていくように見えた。
「梨帆ちゃん頑張ってるのにね」
 文香先輩の小さな唇が形よく作る微笑みは疲れた私の身体に染みてほかほかのおでんを食べた後みたいな心地にさせてくれる。この人がいなかったらアルバイトなんてとっくにやめていたかもしれない。
 文香先輩は大学二年生で私と年齢は一緒である。しかしアルバイト歴は一年半であり、何よりも同年齢とは思えないほどの落ち着きぶりに私は当初からの敬語を未だにくずせないでいる。
「だからこれ借りてきました」
 鞄の中からマニュアルを取り出すと、文香先輩は「わあっ」と手を叩いた。
「ちゃんと復習するんだ。すごいね」
「はい。もう井上さんに怒られたくないし」
 文香先輩がほめてくれたことがうれしくてマニュアルはしまわずに手に持ったままにした。アルバイトを始めた当初、私が自主的にマニュアルを持ち帰ったのを見て文香先輩は店長にもその話をしてくれた。あのときはミスばかりで店長からもよく注意をされていたのだが、文香先輩のおかげで「最近頑張っているらしいな」と店長が目をかけてくれるようになり、ミスも激減していったのである。
「井上さんも梨帆ちゃんの頑張りに気づいてくれるといいのにね」
「はい。だから頑張ります!」
 もう十分頑張ってるよ、と笑う文香先輩を見ていつの間にか胸の中のいやな気持ちは「解散!」の号令を受けたのごとく散り散りになっていた。
 アパートに着いてからアルバイトの残り物で夕食をはじめる。残った材料をおばさん達がつめておみやげに持たせてくれるのだ。
 茹でた豚肉、ハンバーグ、千切りされたキャベツ、かぼちゃサラダ、サバの味噌煮等々ごちゃ混ぜに詰め込まれたパックに白米が詰め込まれたパック。適当につまみながら持ち帰ってきたマニュアルを見る。しかし肝心の新メニューがのっていなかった。
 そうだった、それは別冊子だったんだと気が付いてからため息をついてマニュアルを閉じる。やることがなくなり暇になったのでテレビをつけた。
 その日のお昼。私は外からカウンターの中がどう見えるのかが気になって学校の友人である恵理を誘って食堂に行ってみた。並んでみると思った以上に厨房の様子がよく分かることに驚き、ずっとエプロンを裏側につけていた日を思い出してゾッとした。
「あら、来たの?」
 並んでいる最中に話しかけてきたのは井上さんだった。恵理の前で何か言われるかもしれないと思い身体がかたくなる。
「賄いで食べれるのに変な子だね」
「別にいいじゃないですか」
 ムッとしたと同時にそう言ってから、しまった、と思った。今まで言い返したことなんか一度もなかったのになぜだか自然に口をついてでてしまった。そんな自分に驚きながら恐る恐る井上さんの顔をうかがうと予想とは裏腹に笑顔を浮かべていたのでほっと胸を撫でおろした。
「そりゃ別にいいよ。ちょっと多めに盛ってあげようか」
 これも厨房の中では聞いたことのない優しい声で驚いた。しどろもどろになってる内に、生姜焼き丼とみそ汁が置かれる。豚肉はマニュアルよりも少し多めでそのちょっとした特別感になんともいえない気持ちになった。
 席について恵理の話を半分くらいに聞きながら厨房の文香先輩の様子を見る。並んでいるときはちょうど奥に引っ込んでいたので話しかけられなかったのだ。スラッとした背の高い男性客に何か話しかけられて笑っている。なんだか別の人みたいだ。
「あの子きれいだね」
 急に恵理の声が鮮明に聞こえてきた。
「あの子って文香先輩のこと?」
「いや名前知らないけど。先輩なの?」
「年は一緒なんだけどバイト歴は向こうのが上だし。それに大人っぽいから」
「そうだね。美人だし。ここよりもお洒落なカフェとかのが合いそう」
 それじゃあ私みたいなもっさりしたのにはここはお似合いなのか、とも言えずに生姜焼きの下にしいてあったキャベツを飲み込む。それでも文香先輩が美人と言われたことはうれしかったし、そんな文香先輩と仲良しでいる自分が誇らしかった。
 しかし夕方にしか入れない私とは逆に最近の文香先輩のシフトはほとんどお昼だ。必然的に接する時間も減った。
「つーか梨帆さ、私の話聞いてないよね」
 恵理の尖った声に心臓が跳ね上がる。
「そんなことないよ。聞いてる聞いてる」
「本当?」
 口角を上げて頷く私に恵理は話を再開する。その彼氏の悪口を聞くのはもう今週三度目だ。私の話をちゃんと聞いてくれる文香先輩が恋しかった。
 今日は久しぶりに文香先輩と夕方からのシフトが一緒の日である。話したいことがたくさんあったがミスしないようにアルバイト中は我慢して仕事に集中した。
 文香先輩に前よりも仕事を覚えたことを見せようと張り切っていたのだがそんな気分を害する出来事があった。マニュアルは守っているのに「これ量少なくない?」と文句を言うお客さんがいたのだ。ムッとしたが笑顔で「すみません」とカレーを足した。
 お玉のこのラインまで、とは決まっているが大雑把に盛り付けをするバイトもいる。そんな人がいると「前はもっと多かったけど」というクレームにつながってしまう。こっちが正解なのに、と悔しい思いをしながらそれでも謝る。店長に聞いてみたこともあったが「まあ気を付けてとは言ってるけど仕方ない時もあるしね」と取り合ってくれなかった。私の温玉は井上さんにあんなに怒られるのに多めに盛った人が怒られないのはなんだか納得がいかなかった。
 アルバイトが終わってからその不満について文香先輩に話してみると意外なことに文香先輩は私と同じ意見ではなかった。
「態度いい人とかだとサービス精神で多めに盛っちゃうんだよね」
「でもみんな同じ金額なのにこっちの判断で量を変えちゃいけないですよ」
「でもさ、丁寧に接してくれる人にはつい優しくしちゃわない?」
「だからって贔屓はいけないと思います」
 思わず強めの声がでてしまう。文香先輩は「そうだね、ごめんね」と困ったように微笑んだ。
 こんなにかわいくてそれでいて守ってあげたくなるような表情を浮かべられたらこっちこそ困ってしまう。なんて話を続けたらいいか分からなくなってしまった。
「そういえば最近井上さんに怒られなくなったね」
「あ、そうなんです!」
 気まずい空気を変えるかのように文香先輩が明るい話題をふってきてくれた。さっきまでの不満なんてきれいさっぱりに消えていく。
「こないだお昼にご飯食べに来た時にちょっとサービスしてくれて。それは普通にうれしかったんでそのお礼言ってからなんとなくバイト中も優しくなったんですよね。そしたら自然にミスもなくなって。やっぱりずっと緊張してたみたいです。怒鳴られるっていうビクビクがあるとだめですね」
「そっか。よかったね」
 文香先輩の表情は相変わらず柔らかい。
 しかし緊張感も抜けすぎるとそれはそれでまずい。浮かれていた私はアルバイト中にちょっとしたミスをしでかしてしまったのだ。
 その日は炒め物が多く出て、作りだめしておいた分が早々になくなりそうになったのでいつでも新たに作れるようにスポンジで中華鍋の汚れをこすって軽く洗っておいた。それから水分を飛ばすために火にかけていたところ井上さんに呼ばれて私はそれを放置してしまったのだ。
 他のバイトはカウンターにでたきり、パートのおばちゃん達はコンロには背を向けて別の作業。その鍋に気が付いたのはカウンターが一段落して食器を洗おうと奥に来た文香先輩であった。
 私が井上さんの仕事の手伝いを終えた後に、文香先輩は手招きしてから小声でこう聞いてきた。
「中華鍋火にかけたのって梨帆ちゃん?」
 心臓が飛び上がった。
「そうです! すみませんでした!」
「まあ私が気が付いたのも早かったみたいだし大丈夫だったよ。でも火はさすがに気を付けてね」
「はい、すみません」
 あのままカウンターも忙しいままだったらどうなっていたか分からない。しょんぼりと肩を落とす私に文香先輩は優しく声をかけてくれた。
「炒め物が今日は早く出てるから気をつかって洗っておいてくれたんだね」
 本当に文香先輩はよく見てくれている。ミスを指摘するだけの井上さんとは大違いだ。
「井上さんに呼ばれてちょっと焦っちゃったんです。やっぱりまだ苦手意識あるみたいで」
 こそっと小声で言った私に文香先輩は「そっか」と笑顔を向けた。
 タイムカードを切ってから帽子とエプロンを外して所定の位置にしまう。荷物を取りに更衣室に行くと先に行ったはずの文香先輩の姿がどこにも見当たらなかった。
 厨房に戻りきょろきょろしていると店長が不思議そうな顔をして「どうした?」と聞いてきた。
「あの、文香先輩見ませんでした?」
「文香ちゃんならもう出て行ったよ」
「え、そうなんですか」
「なんか急いでたな。用事でもあったんじゃない?」
「ええ、そんなあ」
 貴重な帰り道の時間だったのに、とがっくりした。用事があるなんて言ってくれなかったので本当に緊急か、今まで忘れていたのを急に思い出したのだろう。仕方ないが悲しい。そこで店長がじっと私を見ていることに気が付いた。
「なんですか?」
「いや、なんでも」
 目を逸らされてしまった。その様子に首をひねっていると井上さんが更衣室から出てきた。
「お疲れ様―。あれ、梨帆ちゃんどうしたの? 文香ちゃんは?」
「用事あったみたいで帰っちゃって」
「そうなの? あ、そうそう。梨帆ちゃん最近頑張ってるよね」
「え?」
「ミスもしないし今日なんて事前に炒め物がなくなるの見越して中華鍋洗っておいてくれてたもんね」
 店長も「お、そうか」と私を笑顔で見た。
「最初はどうなることやらなんて思ってたけどよかった」
「なんですかそれ。ひどーい」
 店長の言い草に私がわざとらしくふくれると店長と井上さんが笑い声を上げた。私もそれに一緒に笑いながら、このバイトに来る目的が増えていることを感じていた。
 あの後、文香先輩からは特に謝罪のメールはこなかった。仕方がないのでこちらから『木曜日なにか用事があったんですか』と送ったがしばらく待っても返事はこなかった。ようやく携帯が鳴ったと思ったらいつもの恵理の彼氏への悪口だったので、うんざりしながら携帯をベッドに投げつけた。
 文香先輩とのシフトが重ならない日が続き、メールの返事もこないまま不安な気持ちは日に日に積もっていった。文香先輩が入っているお昼時にまた客として行こうかとも思ったがカウンター越しではうまく話ができるか分からなくてやめておいた。
 ようやく文香先輩と入る日がやってきた。学校でうきうきしながら夕方を待ちこがれていると、友人である奈美が不思議そうな顔をして「バイトの何が楽しいの?」と聞いてきた。
「バイトっていうかそこにいる先輩と一緒にいれるのがうれしいの」
「そんなかっこいいの?」
「かっこいい? 美人だよ」
「へえ。美人系か」
 黙っていた恵理が突然ぷっと噴出した。
「多分奈美は勘違いしてる。こいつが言ってるの女子だから」
「なんだ、女か」
 驚いて私が「男だと思ったの?」と聞くと奈美は「あの流れなら思うでしょ」とこたえた。
 どんな流れであったか思い出そうとしたけれども会話は思い出せても結局なんでそう思ったのかは分からなかった。
「つーかなんで美人があの食堂?」
「あ、私もそれ思った。絶対カフェとかのがいいのに。ふわっふわのパンケーキが似合いそうなのにさ」
「梨帆は食堂って感じだけどね」
「確かに!」
 いつもだったら曖昧な笑顔を浮かべていたところであったが今日はそんな気持ちになれなかった。
「そうだね。色々メニューも覚えたし、こないだ店長にもほめてもらったし私にはあの食堂が合ってるみたい」
 そうくるとは思っていなかったらしく、奈美と恵理は二人で顔を見合わせてからぎこちないような笑顔を浮かべた。
「あ、そうなんだ。よかったじゃん」
「安いのに結構うまかったしね」
「え、マジ? そういえば近いのに一回も行ったことないわ」
 私は店長から割引券をもらっていたことを思い出した。
「これあるから今度みんなでいかない?」
 奈美と恵理に割引券をわたすと二人はそれを受け取って、お互いに向けて浮かべる笑顔を初めて私にも向けてくれた。
 学校でのうきうきから一転、緊張しながら食堂に入る。文香先輩はなぜか店長のいる事務室から出てきた。私と目が合うといつも通りの笑顔で「お疲れ」と声をかけてきてくれたので安堵で胸がいっぱいになり、うっかりすると涙まででそうだった。
「こないだ先に帰っちゃってごめんね。用事思い出して」
「そうだったんですね」
「うん。メールも迷ったんだけど謝るなら直接のがいいと思って」
「そっか。むしろこんなことでメールしちゃってごめんなさい」
「ううん、全然いいの」
 文香先輩の笑顔一つで不安なんかすぐに吹っ飛んでしまう。太陽のあたたかさに上着を脱いだ旅人の気持ちがよく分かった。
 文香先輩に励まされてアルバイトもうまくいくようになり、そこから自信を得て学校の友達とも対等な関係になった。きっかけになってくれた文香先輩には感謝してもしきれない。
 しかしまたも私はやらかしてしまった。
「危ないでしょ!」
 久しぶりに聞いた店長の怒鳴り声。私は今度は流し台で失敗をしてしまったのだ。
 料理が盛り付けられていたお皿は大きな食器洗浄機で洗うのだが、料理道具や材料の入っていた鍋等は厨房奥の流し台でスポンジでこすって洗う。包丁は危ないのですぐに洗って元の位置へと戻しておくのだが、洗おうとしたところで呼ばれた私は鍋に沈めたままにしてしまったのだ。それも流し台にためた泡だらけで底の見えない鍋の中に。
 事務室で帳簿をつけたり発注作業をしている店長はその日の様子で手の足りなそうなところに手伝いに入る。今日は洗い物がたまっていたので流し台に入ったのだ。そして流し台にたまった泡に手を突っ込んで洗い物を確かめようとしたところ、包丁の柄の部分をさわったのである。
「こっちだったからよかったけどさ。刃の方だったらどうすんの。手切れてたよ」
「はい、ごめんなさい」
 悪いのはもちろん私であるので必死に頭を下げる。今日は文香先輩に「カウンターに入ってもらえる?」と声をかけられた途端に包丁のことはすっかり頭から抜けてしまった。久しぶりに文香先輩と時間を過ごせることがうれしくて作業に身が入っていなかったのかもしれない。
「これからは気を付けてね」
「はい……」
 元気をなくした私の肩を叩いたのは井上さんだった。
「まあ店長もケガなかったしこれから気を付ければいいから」
「ありがとうございます」
 優しくされると逆にこらえていた涙がでそうになるから困る。しかしあれだけ怖かった井上さんが味方になってくれるとは。これは大きな進歩だ。
 アルバイトが終わりいつものようにおばちゃん達が賄い用に残ったものをパックに詰めていく。
「梨帆ちゃん何かリクエストある?」
 怒られた私を励ましてくれようとしているのか井上さんが明るい声で私にそう聞いてきた。
「じゃあサラダ多めでお願いします」
「サラダ? もっと肉食べなさいよ。そんな細くて心配!」
「そんなことないですよ。最近野菜不足な気がするので野菜食べたいんです」
「じゃあチキンサラダいれておくね」
「それほとんど肉じゃないですか!」
 井上さんと談笑しているといつの間にか文香先輩が後ろにいた。すっかり身支度が整っている。
 私も早く着替えなきゃ、と慌てて更衣室に向かおうとしたところで急に不安に襲われた。
「今日一緒に帰れますか?」
 文香先輩はいつもの笑顔で「うん、一緒に帰ろう」と言ってくれた。
 並んで帰る途中、思い出したのは奈美と恵理の会話だった。
「文香先輩ってなんでこの食堂でバイトしようと思ったんですか?」
「梨帆ちゃんと一緒だよ」
「一緒?」
 何を言っているのだろうかと思った。文香先輩と私が同じ理由なわけがない。
「梨帆ちゃんも言ってたじゃん。家から近いからって」
 そういう意味で聞いているのではなかった。
「でも近いってだけなら他にもあるじゃないですか。駅前のレトロでかわいい喫茶店とかお洒落なカフェとか」
 私が文香先輩の顔なら絶対にそういうお店をアルバイト先に選ぶ。恵理の言っていたふわふわのパンケーキ、はイメージで言っていたのではなく具体的な場所を指していたのだろう。あの美男美女しかいない駅前のパンケーキのお店。私は客としてもあそこに入る勇気はもてない。
「本当はね、大学来てすぐのときには別のところでバイトしてたの」
 文香先輩が口にしたのは駅前のパンケーキのお店だった。やっぱり、という気持ちとなぜだか裏切られたようなひりひりとした感情がないまぜになってふくらんでいく。ふわふわのパンケーキではない、密度の濃い物体。
「制服がかわいいって理由だけで選んだんだけどね。あそこ恋愛関係が複雑で。それに疲れて辞めたの」
 そんな理由で気軽にあの喫茶店でアルバイトをしてみようと思う文香先輩はやっぱり私とは別の世界の人だ。
「でもここはそういうのがなくて本当にラク」
 私をあたたかい気持ちにさせてくれる帰り道の笑顔のはずなのに、男の人に話しかけられていたあの笑顔に見えた。
「ちょうどあの食堂でバイトしてた大学の先輩に誘われてね。今はいないけど、その先輩は頼れる人だったから仕事もすぐに覚えられて。助かったな。実は私覚えるのって結構苦手で。だから最初の頃の梨帆ちゃんは自分を見てるようだったの」
「じゃあ文香先輩は」
 私の声は自分でも驚くくらい低かった。
「その先輩へのお返しのつもりで私に優しかったんですか」
 文香先輩は私の気持ちに気が付かずに屈託のない笑顔を浮かべた。
「それもあるかも。先輩にお礼を言ったら『その気持ちはこれから入ってくる子に向けてあげて』って言ってくれてね」
 それからの文香先輩の話は頭に入ってこなかった。
 こんなにきれいな人が優しくしてくれるのは、私が一生懸命で頑張り屋だからだと思っていた。だけどそうじゃない。文香先輩はお世話になった人の教えを守っているだけだ。
 家に帰ると、さっき別れたばかりなのに文香先輩からメールが入っていた。ちょっと前まであれほど待ち焦がれていたものなのに今はあまりうれしくなかった。
 その後、文香先輩は新しく入ってきた子のフォローをするようになった。新人の子はハキハキとした明るい子で、気後れした私はその子にうまく話しかけることができず文香先輩とも自然と距離を置くようになった。それから日は過ぎていき、実習が忙しくなった私は文香先輩に何も言わずにアルバイトを辞めた。
 しばらくしてから送ったメールは宛先不明で届かなかった。電話は気が進まなかったし、これさえもつながらなかったらと思うと怖くてかけることができなかった。
 
 文香先輩のラインの名前は苗字が変わっていた。かっこ書きで旧姓も記してあるのが気遣い屋の文香先輩らしい。
 顔を上げると机の上にのっているたくさんのカタログ達が目に入る。今覚える必要があるのはカタログの中にある商品達のセールスポイントである。
それなのにめくってはため息をついて閉じてしまう。文香先輩にほめてもらいたくてマニュアルを必死に覚えたあの頃とは大違いのやる気のなさだ。
 しかし私は文香先輩と気軽に連絡をとる手段を手に入れた。
 文香先輩がきっかけでたくさんのことが好転したあの頃を思い出し、久しぶりに胸の高鳴りを感じていた。文香先輩は今どこに住んでいるのだろう。もし会える距離にいたらあの頃できなかった遊びの誘いを今度こそしたい。
『バイトで一緒だった梨帆です! 覚えてますか?』
 震える指でメッセージを送り、買ったばかりのスマートフォンを握りしめる。しばらくしてからメッセージ受信の音が鳴りすぐに画面を開いた。
『やっとスマホにしたの? 遅すぎ! でも梨帆らしいわ(笑)』
 恵理であった。それから音が鳴るたびに胸をときめかせながら画面を開いたが全て恵理からであった。相変わらず彼氏への悪口ばかりで、メールとちがって小刻みに送られてくるのがうっとうしい。
 スマートフォンが鳴る。今度こそ、と画面を開くが七回目の恵理からのメッセージだった。うんざりしてスマートフォンをベッドに投げつけた。
 しばらくしてから文香先輩とのトーク画面を開く。いつのまにか既読がついているのを見てぶわっと体温が上がった。いてもたってもいられなくて、あふれる思いを追加のメッセージに込めて送信する。
 今度は指は震えなかった。

【おわり】

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