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私論Ⅱ

こんにちは。執筆時では、あと8時間で2024年は終了する。

下の記事で、2025年の抱負や目標を赤裸々に述べた。


私論を、思いついた順番に、草稿もなく、校閲もなく、つらつらと述べていく、この「私論」というシリーズは7ヶ月前で更新が止まってしまっている。当時の書いた内容を読み返してみると、哲学書の難解さと、恋愛の難解さに苦しむという、何とも可哀想な生活を送っていたようだ。まるでウィトゲンシュタインやキルケゴールのような生活を送っているではないか!

今回もまた、私論について述べていく。大学で1年間を過ごしたため、少しはマシなことが書けるだろうと願いつつ。


哲学科に入学したはいいが、周りの熱量と自分の熱量の差に苦しみ、なおかつ、哲学科以外の友人のあまりの哲学科への無理解さに内心腹が立つがしょうがないという気持ちがあった。「それ何の役に立つの?」「哲学なんて変な奴しかやらない」「哲学科なんて意味ある?」このような言葉を悪気なく使ってくる友人には、「法律がなくなった世界で法学部は何の役に立つのか?」「経済学部なんてお金の話を数理的に分析したりするだけの空論じゃないか」と言いたくもなる。「就職が強い」「哲学科では就職は終わり」と返されるだけであるだろうが。結局、学問は、日常のあらゆる事象をより厳密に解釈、証明、論証しようという営みであると言えるので、そこまで哲学と科学、経済学や法学に差があるとは思えない。

また、自分は大学院修士課程までは確実に進学する気でいるので、就職活動をしようという気が起こらない。1年生で就職説明会には顔を出したが、どうも満足な回答が得られることはなく、自分が社会的に「違う」人間なんだろうな、と改めて痛感してしまったくらいである。かと言って就職活動をしている人間や、勧める人間を冷笑すると言った姿勢はどうかとも自分で思う。何かにつけて、X(旧Twitter)を見ていると、冷笑系の話題がTL(タイムライン)に上がってきてしまうことが多く、自分もそれに乗っかって世間を冷笑してしまうことも多かったが、2025年を迎えようとする今、というか性格には12/28、気がついたのである。


ダサいなこれ…


と。世間を冷笑する姿は、なるほど確かに知識ある人間、世相に流されず、エッジの効いた言葉を放つ切れ者、他者とは違う考えの持ち主であると、思ってしまう。しかし、冷笑の構えから入り、全ての機会、人に対し、冷笑を放つ。このような「積極的冷笑姿勢」はいかがなものかなと思う。まずは目の前に来たキャッチーな話題や、機会、人をそのまま受容してみる。そして、時間をかけて検討を重ね、正か否を判断していく。このような冷静な視座こそ、現代の情報過多社会を生きる我々(主語がでかい)には求められているのではないかと日々感じる。自分は全く実践できていない…

恋愛は、うまくいっていない。もはや12/28には、「俺は恋愛よりまだすべきことがある」という視点に達することができたのが幸いであるが、人とのコミュニカシオン(なぜフランス語?)をあまり求めず、自分のいたい仲間とだけいて、他人にあまり打ち解けることがなく、SNSで日々ニタニタとDMをするも現実では話しかけることができず…
という自分は、恋愛という人間的営みに上がる前の類人猿状態であると、深く自覚させられた。女友達に「わからせ(説教)」られることによって…
上手くいっていないというのは、DMではまあまあ上手く?話すことができるも、謎のテクニックや、遊び、昼飯などに誘うことができないと言った状態であったり、直接会うといった仕方を提案することができずずるずるいったり、「現実ではこれ絶対言わねえだろ何だこのDM気持ち悪りぃ…」と呂布カルマもついつい言いそうになるような内容を送りつけたりすることであった。そもそも、チャットアプリでやり取りできれば十分みたいな目的ではないのだから、もう少し自分が現実世界でうまく立ち回る経験、方法、機会を取り入れ、実践、量をこなすべきであった。所詮、ネットの世界ではネット程度の浅い仲しか築けない。今、ネットから入って、親密な関係になっている友人は、例外なく、会ったり、食事に行ったりしている。総インターネット社会である現代にとっても、「直接的な出会い」というのは無くならないだろう。キリトではないのだから、ナーヴギアをかぶれば世界最強の戦士というわけにはいかないのだ。キリトも、日常生活でも上手くできているぞ。
恋愛以前に周りとのコミュニケーションをとったり、もうちょっと友達を増やしたりしようという、幼稚園児のお説教みたいなことを大学1年になってまでもされてしまう幼稚な人間性なのが厳しい…



自分は浪人という経験がやはり重大なマイルストーンであることは疑いない。あそこで死ぬほど勉強することにより、「努力のフレームワーク」を得ることができた。コミュニケーションは苦手だが、1人で黙々と自分を高めるのは得意である。というわけで「2025」ではあのように自己内省からの、自己分析、自己を高めることをつらつらと述べたわけである。それでは逃げているのではないかという自分の中の声もある。自分の「良心の呼び声」に従うのも大事なので、ここでは2025年を、どのような年とするのか「2025」より緊密に定義し、「2025」よりはっきり完全たる明瞭な目標を定めることとする。また、「自分を高める」「自分磨き」というのも、脚色ばかりの曖昧模糊としたフレーズであり、このようなおためごかしの言葉で飾っているようでは何も、また、達成することができないだろうと感じたため、「私論Ⅱ」の中でもまた、思考していくことにする。元々このシリーズは、流れるように書き、あんまり内容構成を考えないで、下書き状態に1度もすることなく完成させる代物なのでそこら辺はいいだろうと考えている。

2025年、私は、「語学学習を頑張り、哲学研究科に入学志望するに相応しい語学力、思考力、知識をつける。」「余裕ある強い男になる」という二つの目標を掲げた。しかし、「2025」を書いた晩に気がついたのである。「これでは浅すぎる…1番目の目標はまだわかるとして、2番目が抽象的である…」と。

哲学研究科というのも、どこを志望しているのか不明であるのも、やる気が出なさそうな一因になってしまいそうだ。そこで、それもまた定めてみることにする。

私は、そもそも関東生まれ関東育ち、大学も何の因果か関東の私立大学に入学してしまった。つまり、22〜23年は関東に居続ける羽目になってしまう。それは嫌である。なぜならば、「関東の空気感が合わない」と感じるためである。自分は、京都や長野といった、程よく都会でありながらも、喧騒から離れた街が好きなのである。


1/14
12/31からだいぶ経った。状況は変わり、テストとレポート以外は自由な生活になってきている。ここで基礎体力をつけたい。しかしながら、いまだに自身が何をしたいのか、何になりたいのか、どのように生きていきたいのかの指針が明確になっておらず、悔しい。モニャモニャした、抽象的な何かは心の中にあるのだが、それを言語化するのは極めて難しい。というよりは、容易なように見せておいていざ実践をしようとすると、牙を向くといった感じである。これはもしかしたら一生かけても叶わない命題なのかもしれない。また、最近は読みたい本や読む本、買ってしまう本が多すぎるという決定的な問題があるため、まずは本を買うことを制限、そして、積読をひたすら消化するという、ある種の「作業・儀式的な読書」を実行する。そんなにして読まなくてもいいだろうというものもあるだろうが、完璧主義に生まれてしまったので全てを読まないといい気分になれない。また、読み終わったのちは何冊か読みたい本を決め(原典やそれに近い訳書のテクスト)て、深く読むことを今のうちからやっておきたい。浅田彰と柄谷行人の『構造と力』『逃走論』『力と交換様式』を読み、ニューアカ(もうオールドアカか)ぶるのも忘れずに

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