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112回目 "The Fixer"を読む(Part 9 読了回)。下働きの人々の『命の扱われ方の軽さ』と『苦しい生活に鍛えられた人の芯に宿る優しさ』の対比。

いよいよ読了回です。最後の章 Chapter 9 に来るまでは、それほど明示的には表現されていなかった、人の心の底に育まれる「優しさ」が感動的に読者に迫ります。

未決囚として刑務所に拘束された Yakov に加えられる過酷な仕打ち。挫ける寸前まで追い詰められるものの Yakov は何とか持ちこたえます。その為の気力の源泉は何だったのか? 復讐心・恨みではなかったはずです。
  二つ目は、ユダヤ教の教えに縋り付いて生き延びる Yakov の義父 Shmuel。この男の哲学に心を打たれて、ユダヤ人のエリート法律家が Shmuel を称賛します。
  三つ目は刑務所の刑務官の一人が、仕事上のこととして振る舞っているだけでなく、自身の考えで行動することの必要性に気付くという変化です。

《 上段バナーの黒い鳥の影は a Black Bird として小説に
登場します。主人公 Yakov に厄災が襲うことの予兆です。
折に触れてYakov の目に留まります。》


1. 官憲側は諦める訳に行かない事態に追い込まれ、新たな使者を独房に送り込みヤーコフに虚偽の自白を迫ります。

妻・義父、そして自分、三人で暮らした家を後にして間もなく二年が過ぎるという早春に、妻との面会を果たしたヤーコフでしたが、鎖を解かれ、ぬるま湯で身体を洗い、髪の毛を整えられたのは面会の為だけでした。独房に戻るとまた壁に繋がる鎖に移動が制限された生活に戻されました。

[原文 1-1] He was chained to the wall again. Things went badly. Better not have been unchained, the getting back was so bad. He beat the clanking chains against the wall until it was scarred white where he stood. They let him beat the wall. Otherwise he slept. But for the searches he would have slept through the day. He slept the sleep of the dead with his feet in stocks. He slept through the end of winter and into spring. Kogin said it was April.
[和訳 1-1] 彼は再び元の鎖で壁に繋がれました。ことは悪い方へ悪い方へと向かいます。ひととき鎖を解かれたお陰で腐りぬ繋がれる状態に戻るとその苦しさが以前以上に苦痛です。彼が動くたびに鎖がこすれ合う音を立てました。動くたびに壁にぶつかるもので、壁の彼の体躯に相当する部分が擦られて白っぽく変色してしまいました。立っている以外の時間には、日中であっても横になって過ごさされました。身体検査の時間以外には横になって両脚の膝から下は脚の固定箱に閉じ込められたのです。その姿勢で眠るのですがそれは死人の眠りでした。冬中がこの状態で、春になってもそれは続きました。コージン(刑務官の一人)が4月だよと教えました。

Lines between line 1 and line 8 on page 293, "The
Fixer", a Farrar, Straus and Giroux paperback, 2004

妻に続いて次に説得に訪れたのはロシア人の、既に現役を退いた法律家です。この法律家の口を借りて、Yakov に苦痛を加える理由が読者にも明示的に示されます。

[原文 1-2] An old pink-faced man came into the cell dressed in winter clothes. He wore a black cape and black gaiters and grasped a gnarled cane. Berezhinsky followed him in, carrying a slender chair with a delicate back, and the old man sat in it erectly, several feet from the fixer, holding the cane with gray-mittened hands. His watery eyes wandered. He told Yakov he was a former jurist of high repute, and that he came with good news. An excitement so thick it felt like sickness surged through the fixer. He asked what good news. The former jurist said this was the year of the three-hundredth anniversary of the rule of the House of Romanov and that the Tsar, in celebration, would issue a ukase amnestying certain classes of criminals. Yakov name would be listed among them. He was to be pardoned and permitted to return to his village. The old man's face flushed with pleasure. The prisoner clung to the wall, too burdened to speak.
[和訳 1-2] 高齢で、頬をピンク色にした男が独房に現れました。冬服です。黒い肩掛け、黒のゲートル、凸凹に瘤が絡みついた杖状の棒を握りしめています。ベレジンスキ(刑務官・コージンの相方)が後ろに控えています。軽い造りで細かい飾り付がある背もたれの椅子を持っています。この高齢の男はこの椅子に背筋を伸ばして座りました。修理屋からは数フィート離れています。あの杖を今度は身体の前に白髪に変わったヒゲもじゃの両手で突っ立てています。あたりを見回す目には涙のような水が光っています。ヤーコフに自分は名の通った法律学者であったと経歴を伝え、おまえに良いニュースを持って来たのだと言いました。病気の所為かと思える程に強烈な感情の高まりが修理屋の全身に走りました。彼は良いお話とは何でしょうかと尋ねます。退職済の法律家は、今年はロマノフ王朝が始まって 300 年目の記念すべき年なのです。皇帝さまがお祝いとして慈善的企画の実行令を発布されるとのことで、条件に該当する犯罪者の恩赦がその企画に含まれています。故郷の村に帰ることが許されます。この高齢の男の顔がうれしそうに赤らみました。当の被拘留者は何か声に出すのも無駄に思えて黙ったまま壁に寄り架かっていました。

Lines between line 13 on page 293 and line 17 on page 294,
"The Fixer", a Farrar, Straus and Giroux paperback, 2004

[原文 1-3] Yakov said he wanted a fair trial, not a pardon. If they ordered him to leave the prison without a trial they would have to shoot him first. Don't be foolish, said the former jurist, how can you go on suffering like this, caked in filth? The fixer moved his chains restlessly. I have no choice, he said. I have just offered you one. That's not choice, said Yakov. The former jurist tried to convince the prisoner, then gave up in irritation. It's easier to reason with a peasant. He rose and shook his cane at the fixer. How can we help you, he shouted, if you are so pigheaded? Berezhinsky, who had been listening at the spy hole, opened the door and the old man left the cell. The guard came in for the chair but before taking it, he let Yakov urinate in the can, then dumped the container on his head. The fixer was left in chains that night. He thought that whenever he had been through the worst, there was always worse.
[和訳 1-3] ヤーコフは、自分が望むのは公正な裁判が望みで、恩赦ではありません。もし裁判なしで、この刑務所から単に出ていけと命令するくらいなら、私をここで撃ち殺す決定をするべきですと口にしました。退職済みの法律家は馬鹿なことを言うものではないとこの被拘置者の高ぶりをなだめに掛かりました。どうしてここでこのように苦しみ続けることを臨むのかね、ゴミ屑と一体に丸め込まれて? しかし直ぐにいらだってそれを諦めました。そこらの農夫のほうが賢くて説得しやすいよと漏らすと、椅子から腰を上げ手にした杖の棒でこの修理屋に一撃を加えると同時に、それほどまでの頑固野郎には助けようがない、と大声を上げました。ベレジンスキはドアの外から覗き穴を通して聞き耳を立てていたのですがドアを開き、この高齢の法律家は独房を後にしました。この刑務官は椅子を運び出そうと独房内に踏み入ったのですが、その前にヤーコフに小便をさせることにし、それで一杯になったブリキ缶をヤーコフの頭のてっぺんでひっくり返しました。この修理屋は壁に鎖で繋がれたままその一夜を過ごさせられることになりました(横になって眠ることが不能になりました)。 最悪の事態が通り過ぎてもまた直ぐにそれ以上に最悪の事態が到来するのが自分の生涯だと思うのでした。

Lines between line 25 on page 294 and line 4 on page 295,
"The Fixer", a Farrar, Straus and Giroux paperback, 2004

帝政ロシアの政府がこのように個々のユダヤ人を虚偽の口実に基づく形にしろ公開の場で罰することで、政権に向かる民衆の不満のはけ口にしようとしていたのだとこの小説は言っているようです。しかし政権に居る、権力を持つ個人も民衆同様に反ユダヤ主義に取りつかれている、決して反ユダヤ主義感情抜きで、この謀略の実行を選択した訳でないことも読者としては頭に浮かべるべきでしょう。


2. ある日、ユダヤ人の法律家が Yakov を訪れ独房内で一時間に渡る会話を交わします。

義父の Shmuel に続いて妻の Raisl が訪れた前後、そしてその後のキエフ、そしてロシアの首都モスクワの社会には Yakov が理不尽な言いがかりで拘束されている。放置できないとする騒ぎが広がっていたのです。正式の起訴状の完成・提示を引き延ばしていた秘密警察部門、法廷検事である Grubeshov にも既に手元にある証拠情報を元に起訴せざるを得ないまでに圧力が高まっているようです。

そのような事情だから許されたのでしょうが、ユダヤ人弁護士 Ostrovsky が独房を訪れます。Raisl の面会から 3-4 か月後の頃です。

[原文 2] " … … So enough philosophy. At this minute there's not much good news; finally we squeezed out an indictment, which means they will now have to schedule the case for trial, though when I leave to Rashi. But first, if you'll excuse me, I'll give you the bad news." Ostrovsky sighed. "I'm sorry that your father-in-law, Shmuel Rabinovitch, who I had the pleasure to meet and talk to last summer--a gifted man--is now, I'm sorry to tell you, dead from diabetes. This your wife wrote me in a letter."
  "Ah," said Yakov.
  Death had preceded itself. Poor Shmuel, the fixer thought, now I'll never see him again. That's what happens when you say goodbye to a friend and ride out into the world.
  He covered his face with his hands and wept.
  "He was a good man, he tried to educate me."
  "The thing about life is how fast it goes," Ostrovsky said. 
[和訳 2] 「・・・こんなに沢山の哲学的側面が見つかります。さて今回の話ですが、あまり良い話はありません。この日まで来てやっとながら起訴状を提出させるまに追い詰めることが出来ました。今や奴らはこの案件に掛かる裁判開始に向けた日程を固めねばなりません。ところで私自身はユダヤ教、シナゴーグの仕事で、この案件から一時離れることにはなります。しかし、お許しいただかねばならないのですが、悪いことから話を始めさせて頂きます。」とオストロフスキは大きな息を吐きました。「心苦しいのですがあなたの義父、シュムエル・ラビノビッチさんがお亡くなりになりました。糖尿病の所為です。この方とは去年の夏に面会させていただいています。優れた知恵をお持ちの方でした。このことはあなたの奥様からのお手紙で教えられました。
  「あゝ」と、ヤーコフは思わず声を漏らしました。」
  死はおもったよりも先に到来してしまいました。可哀そうなことだな、と修理屋は感じました。もう彼に遭うことはないのだなと。しかし、知り合いに向かってさようならと言葉をかけて育った村を出発すればこうなるのは当然です。
  彼は両手で顔を覆い涙を流しました。
  「この方は良い人で、私にも何かと教えてやらねばと苦労されました。」
  「一生にかかわることとは速い速度で過ぎ行くものなのですよ。」とオストロビスキは言いました。
  

Lines between line 19 on page 304 and line 2 on page 305,
"The Fixer", a Farrar, Straus and Giroux paperback, 2004


3. Yakov の唯一心の会話を交わす経験をした男 Kogin が、監守補佐に脅されつづける Yakov をかばい抗議の動作を見せますが。

Yakov にとって唯一、心の会話を交わす経験をした男であった刑務官の Kogin が反抗的な振る舞いを止めない Yakov をかばい、監守補佐に抗議を示す動作を見せたのですが、一瞬にして撃ち殺されます。

この出来事はユダヤ人弁護士たちの必死の活動の成果として、裁判が開始されることになり、その裁判所に向けて刑務所を出発する日の朝の事でした。秘密警察側は最後の最後まで裁判の開始を先延ばししようとしたのですが、それに失敗したのです。残された手段は Yakov が監守や刑務官の指示に反抗した insubordination という罪で「現行犯への対処」として処刑するほかないと判断したのでしょう。刑務所玄関まで足を進めていた Yakov を、その日の身体検査を失念していたとの口実で独房まで引き戻して嫌がらせを加え挑発したのでした。

しかし、Yakov は挑発に乗るとその場で殺されるから、挑発には乗らないことを最重要事項と認識していました。その結果、引き起こされたのが次のシーンです。

[原文 3] Though his eyes were lit, murderous, the Deputy Warden spoke calmly. "I am within my rights to punish you for interfering with and insulting a prison officials in the performance of his duty."
  He drew his revolver.
  My dirty luck. Yakov thought of the way his life had gone. Now Shmuel is dead and Raisl has nothing to eat. I've never been of use to anybody and I'll never be.
  "Hold on a minute, your honor," said Kogin to the Deputy Warden. His deep voice broke. "I've listened to this man night after night, I know his sorrows. Enough is enough, and anyway it's time for his trial to begin."
  "Get out of my way or I'll cite you for insubordination, you son-of-bitch."
  Kogin pressed the muzzle of his revolver against the Deputy Warden's neck.
  Berezhinsky reached for his gun but before he could draw, Kogin fired.
  He fired at the ceiling and after a while dust drifted to the floor.
  A whistle sounded shrilly in the corridor. The prison bell clanged. The iron cell door was slammed open and the white-faced captain and his Cossack guards rushed into the cell.
  "I've given my personal receipt," he roared.
  "My head aches," Kogin muttered. He sank to his knees with blood on his face. The Deputy Warden had shot him.
[原文 3] この男(監守補佐)は、両目に水気が溢れ、怒り狂って者特有の光を放っていたものの、冷静さを保って一席ぶちました。「私は自分に与えられた権限に基づきおまえに罰を加える。刑務所所属の職員の職務行為を妨害し、侮辱した廉によって。
  監守補佐はリボルバーを取り出し手にしました。
  自分の悪運そのものだ。ヤーコフは自ら過ごしてきたこれまでの暮らし全部を思い浮かべていました。今ではシュムエルは亡くなり、ライズルは食べるのにすら事欠いているのだ。誰かの役に立てることを、自分は未だしたことが無いのだ。そればかりかこの先もできないで一生を終えることになるのだなと悲しくなったのです。
  「お待ちください、監守補佐どの。」コージンが声を上げました。彼の太い声は裏返りかすれています。「私はこの男が夜ごと語った話を何度も聞く機会がありました。私には彼の嘆きが解ります。こんな仕打ち、もう充分ではないですか。それに加えて裁判開始の時間が来ています。」
  「私の邪魔をするな。引っ込んでおれ。さもないと服従拒否の罪人と断定するぞ。このバカ者めが。」
  コージンは自分のリボルバーの筒先を監守補佐の首に押し付けました。
  ベレジンスキも自分の銃に手を伸ばし取り出そうとしたのですが、その前にコージンが発砲しました。
  コージンは天井に向けて発砲したのでした。一瞬間をおいて、埃と破片が地面に向かって揺れ落ちてきました。
  けたたましい笛の音が廊下に響き渡りました。刑務所の非常ベルも大音響を立てました。独房の鉄のドアが勢いよく跳ね開けられ、青ざめた顔の将官と部下のコサック兵士たちが独房になだれ込んできます。
  「私は自分が非拘束人の身柄を譲り受けた書面を渡したのに何ということなのか?」と将官は怒りの声を上げました。
  「自分の頭が痛いなあ。」とコージンが弱々しく呟き、直ぐ後には膝を落としてしゃがみ込んでしまいました。顔には血液が滴っています。監守補佐がコージンを撃ったのでした。

Lines between line 1 and line 28 on page 326, "The
Fixer", a Farrar, Straus and Giroux paperback, 2004

この事件の何ページだったか前には、Kogin が Yakov に打ち明け話をして聞いてもらうシーンがありました。Yakov に情を感じる原因には自分の 20 才を越えた息子が他人の家に泥棒に入り、家の住人の男とつかみ合い、その成り行きでその男が心臓発作を起こし死亡した。シベリア送りになり、厳寒の土地を歩かされている途中で自殺したという話でした。


4. Isaak Babel 譲りの象徴主義(Symbolism)小説を特徴づける文章を一つ。

これが象徴主義 Symbolism の手法なのだろうと感じさせる。そう思って繰り返し読むと益々「言い得て妙だな」と感心する表現です。

この例に限ったことでなくあちらこちらに頻出するのでしょうが、さて振り返ってその場所を探し当てるのは時間が係り過ぎます。

[原文 4] "Then let her give testimony," Yakov said. "Why don't you begin the trial?"
  Grubeshov, who squirmed on the stool as though it were the top of a hot stove, answered, "I have no intention of engaging in an argument with a criminal. I came to tell you that if you and your fellow Jews continue to press me to bring you to trial before I have gathered every last grain of evidence, or investigated all courses of action, then you ought to know what dangers you are creating for yourself. There can be too much of a good thing, Bok, if you understand my meaning. The kettle may steam but don't be surprised if the water is boiled off."
[和訳 4]
《 この部分、目上の者が下の者から弱みを突き上げられた時の居心地の悪さはこう表現するのですという教科書のようです。引用は法廷検事と容疑者の言い争いです。》

  「それですと、法廷で彼女に証言させれば済むことでしょう。」とヤーコフ。「どうして、さっさと裁判を始めないのですか?」
  グルベショフは、ストーブの熱い天板の上に腰かけているかのように、自ら腰を降ろしているスツールの上で腰を捩らせながら言い返します。「私には犯罪人と議論を始める筋合いなんかありません。私がここに来たのは、おまえとおまえの支援者のユダヤ人共が、もし私に早く裁判を開始しろと圧力をかけ続けるならば、この先どんな危険を自らが作り出すことになるのかを教える為なのだぞ。最後の一粒まで、証拠を探し集め終えるまでに、あるいはどのような罰を加えうるかの検討を完了するまでに裁判を開始させようとはさせないぞ。そんなことになればそれは酷いことになるのだそ。ボック。私の言っている意味が解っているのかね。やかんは沸騰して湯気を上げるのだが、それが続いて中の湯が空になるとどうなるか、なってから驚いても手遅れだぞ。」

Lines between line 30 on page 299 and line 6 on page 300,
"The Fixer", a Farrar, Straus and Giroux paperback, 2004


5. Study Notes の無償公開

今回の読書対象部分なこの小説の最終章 Chapter 9, pages 293 - 335 です。A-5 サイズの用紙に両面印刷すると冊子状に纏めることが出来ます。公開のWordフォームと PDF フォームのファイルの内容は同一です。

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