見出し画像

デカルト『方法序説』を読む (谷川 多佳子)

復習「方法序説」

 以前、デカルトについての入門書として、野田又夫氏の「デカルト」を、そのあと「方法序説」も読みました。

 本書は、その岩波文庫の「方法序説」の訳者である谷川多佳子氏が講演された「市民セミナー」の内容をもとにしたものです。薄い本ですが、「方法序説」の章立てに合わせて平易に解説が進みます。

 忘れかけている「方法序説」のポイントの復習です。
 まずは、「理性」を一義に考えるデカルトの基本姿勢の表明です。

(p79より引用) 「第二部」は、・・・多くの人よりも一人によってつくられるほうが完成度が高く、さらに、真理への接近も一人の人間の理性によることが示されていきます。・・・
 真理に接近できるのは、「一人の良識ある人間が目の前にあることについて自然〔生まれながら〕になしうる単純な推論」なのです。そして「われわれの判断力が・・・理性のみによって導かれていた場合ほどに純粋で堅固なもの」になるのです。

 そして、デカルトの代名詞ともなっている言葉、「コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum)」への道程に係るくだりです。

(p107より引用) 「第四部」のデカルト自身の懐疑ですが、まず感覚を疑い、それを取りのける。次の段階では誤謬推理、推論を取りのける。最後に眠っているときの思考、夢の幻想を取りのける・・・。懐疑の果てにコギトがあらわれます。

 続いて、デカルトの言として「方法序説」からの引用を紹介しています。

(p107より引用) しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。

 炉部屋の思索から諸国遍歴を経て「コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum)」に至るのです。

「方法序説」の意味づけ

 デカルトの思索は、「方法序説」において、「コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum)」から「(心身)二元論」に至ります。

(p109より引用) こうして、考えることが、世界のある無しにかかわらず、わたしの存在を保証する。わたしの本質は考えることであり、身体〔物体〕にはまったく依存しない。

 「二元論」には数々の反論が出されましたし、また、二元論自体においても論理的難点として「心身の結合」問題が提起されました。
 デカルト自身、エリザベト王女からの質問を機に、別々とされている精神と身体を結合させる説明を探究していました。

(p157より引用) たしかにデカルトは心身結合を、「それ自身からしか理解されえない」原初的概念としてとらえ、さらに、生活の次元に属するものとしてとらえることに気づいていたわけです。
(p169より引用) デカルト自身、二元論を立て、精神と身体とを区別しましたが、両者の結合は生きるなかでとらえられる、と語っています。・・・デカルト自身は、感覚や日常生活の豊かさを重視していたことが感じられます。

 この二元論の議論は、「機械論的自然観」にも関わります。(ちなみに、デカルトは、数学をモデルにした論理的思考方法と機械論を確立したといわれています)

(p136より引用) デカルトはまず、実践的な哲学と実験を重視します。・・・近代科学がオプティミスティックに始まる時代ですから、自然科学が進歩すれば人間は幸福になれるという学問の展望が述べられる。・・・
 その際の重要な主題が「自然」で、・・・「こうしてわれわれをいわば自然の主人にして所有者たらしめる」という有名な表現です。ヨーロッパ近代の自然へのかかわりを典型的に示す言葉で、フランシス・ベイコンの影響といわれています。

 人が自然を支配するのは「技術の発明」によって可能になるという技術礼讃・機械礼讃的な考え方です。
 「機械論」が「二元論」の議論に適用されると(「身体」はともかく)「心(精神)」も「機械」として説明できるかという命題につながります。この思索の流れを現代にまで敷衍すると「心」と「脳」の問題すなわち「大脳生理学」にも至ります。

 この「二元論」や「機械論」に代表されるように、「方法序説」は、その時代においての意味以上に、その後の種々の学問にもその裾野を拡げていたといえるのです。

(p167より引用) 『方法序説』・・・これは小さな本ですが、そのなかで近代の学問の枠組みを考えるための基本的問題が多岐にわたって提示されています。・・・そして二十世紀、多方面多領域からのデカルト批判。それでもなぜデカルトなのか。個々の問題解決能力には難点や限界があるとしても、問題提起の豊かさ・広さ・深さにおいて、その哲学の偉大さが計られるのではないでしょうか。デカルトの問題提起は根本的であり、その射程は広大でした。

 まさに、現代に生きる(「課題解決型」ではなく)「問題提起型」の思索だったわけです。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?