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遊びをせんとや生れけむ (久世 光彦)

 久世光彦氏のエッセイということと「梁塵秘抄」を引いたタイトルが気になって読んでみた本です。

 久世光彦氏といえば、何はさておきTBSの「ムー」「ムー一族」が頭に浮かびます。放映されていた当時は、私もテレビっ子でよく観ていました。時折あった「生放送」は確かにスリリングで今でも印象に残っています。

(p39より引用) 私は、昔の仲間の顔を思い出すとき、彼らが目を輝かせ、息急き切って走っていた、〈生放送〉のころの彼らの顔を想うことにしている。・・・みんな若かった。あれは面白い〈遊び〉があると聞いて、取るものも取り敢えず集まってきた子供の顔だった。-テレビはあのころ、〈巨きな玩具〉だった。

 当時は「テレビを創る人」が生き生きと情熱をもって仕事をしていたのでしょう。ドラマとバラエティというジャンルは異なりますが、同じような熱さは、数年後に一世を風靡したフジテレビ「オレたちひょうきん族」横澤彪氏にも感じられましたね。

(p122より引用) 時代もよかったのだろう。私たちは運のいい時代にテレビという巨きな玩具で遊ばせて貰っていたのだ。
 同じように幸せに遊んでいた人たちは、他にも大勢いた。向田さんがTBSの「寺内貫太郎一家」で遊んでいれば、NTVでは倉本聰さん「前略おふくろ様」で遊んでいた。早坂暁さん「天下御免」で、山田太一さん「想い出づくり」で、それぞれ自由で新鮮な香りのする〈美味しいドラマ〉を作っていた。テレビドラマが幸福な時代だったのだ。

 そう、なかでも「天下御免」。今でも最も好きなドラマのひとつです。
 放映されていた時期は、私が小学校から中学校にかけてでしょうか。山口崇さんの平賀源内林隆三さんの小野右京之介津坂匡章(秋野太作)さんの稲葉小僧・・・、とりわけ林隆三さんのニヒルでシャイな小野右京之介はよかったですね。
 この番組で「早坂暁」氏の名前がインプットされ、それが再び私の中で登場したのが「夢千代日記」でした。

 さて、私の父親と同年代の久世氏のエッセイ。最後にご紹介するのは、私が一番印象に残ったフレーズです。

(p158より引用) 焼け跡の匂いのする時代は、私たちにとって特別な時代だった。これから先、この国がどうなるか見当がつかなかったが、私たちはちっとも暗くはなかった。それどころか、私たちは何にでもなれると思っていた。そんな身勝手な空想に、希望と力を与えてくれたのが、あのころの映画と、焼け跡の天使たちだったのではないか。いま、そう思う。いつもお腹が空いていて着る物もなく、バラック校舎で粗末な教科書とチビた鉛筆で勉強していたが、私たちにはピカピカ光る可憐な〈希望〉があった。

 どんな時代でも、“子どもが〈希望〉を感じられる” ということは素晴らしいことですね。



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