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黒田官兵衛 作られた軍師像 (渡邊 大門)
(注:本稿は、2014年に初投稿したものの再録です)
「黒田官兵衛」、今度(注:2014年当時)のNHK大河ドラマの主人公ですね。
戦国時代から江戸初期の武将、豊臣秀吉の側近として仕え、築城や城攻め、巧みな調略でその才覚を発揮したと伝えられている傑物。「黒田官兵衛」といえば、竹中半兵衛と並んで卓抜した異能の“軍師”としての強烈なイメージを抱かせるヒーローのひとりです。
本書では、官兵衛を知るための編纂史料である「黒田家譜」を中心にしつつも、官兵衛による書状等数少ない一次資料による検証も踏まえ、官兵衛の実像を明らかにしていきます。
その検証・立論における著者の基本的な姿勢は、以下のような記述に表れています。
(p13より引用) 『黒田家譜』は福岡藩の儒者・貝原益軒の手になるもので、寛文11年(1971)に福岡藩主・黒田忠之の命を受けて編纂を開始し、元禄元年(1688)に完成した。執筆には「黒田家文書」なども駆使しているが、古い時代になると根拠になる史料が乏しいため、叙述に信頼性の欠ける面がある。また、地の文における官兵衛などの評価に関しては、儒教の影響を受け、官兵衛を実際以上に理想化している感が否めない。
確かに時代が下って編纂された自家の「家譜」ですから、かなりの脚色が施されている可能性は否定できないでしょう。
官兵衛の活躍は、豊臣秀吉の天下取りのプロセスがその頂点ですが、“官兵衛の智謀”として有名なこの時期の逸話についても、著者は冷静な検証を加えています。
(p113より引用) 官兵衛が中国大返しから山崎合戦にかけて、秀吉のもとで十分な活躍をしたことは認めてよいであろう。しかし、『黒田家譜』では、さまざまな逸話を持ち出して、その軍功をあまりに強調しているといわざるを得ない。
一般には、備中高松城攻略での「水攻め」や、明智光秀による本能寺の変を知った「中国大返し」等を献策し見事に成功させたと言われています。しかしながら著者によると、官兵衛がそれらの軍略に関わったことは確かだとしても、そのオリジナルな提唱者であったかという点については大いに疑問があるようです。
さらに、官兵衛の軍師像の形成には、上述の「黒田家譜」に加えて長子黒田長政の「遺言」も大きな役割を果たしています。
この遺言は、黒田家において無作法があった場合、幕府からの寛大な措置を求める縁とすべきものとして残されました。
(p257より引用) つまり、長政は将来の黒田家の子孫が危機に瀕したとき、「家康が天下を獲り、江戸幕府があるのは黒田家のおかげ」ということを拠り所として、家の取り潰しを逃れようとしたのであった。そして、長政は黒田家の優越性を誇示するため、数多くの「架空の話」を列挙しているのである。
この「話」が、後日語られるようになった官兵衛の逸話の原型のひとつとなったとの考えです。
さて、本書で展開されている種々の考察を通してみたとき、官兵衛が超人的な“軍師”といえるかどうかは、その「軍師」の定義にもよりますが、それが「戦上手」というのであればちょっと違うような印象を持ちました。
寧ろ、戦の前裁きや後処理で活躍した「仕事師(タフ・ネゴシエーター)」という方が近いように思います。
ただ、そのイメージがどうであったとしても、激動の戦国時代を生き抜き、長政とともに明治維新まで続く大藩福岡(筑前)藩の礎を築いたその官兵衛の才覚は尋常ではなかったのでしょう。
NHKの大河ドラマが契機となり、今、様々な「官兵衛本」が出版されているようです。
今回の著作で描かれた「官兵衛」像と対比させる意味でも、もう一冊ぐらい、今度は「逸話」部分を重視したタイプの本も読んでみましょう。