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「日本文化論」の変容 (青木 保)
「自己確認」としての「日本人論」
本書は、「日本人論」「日本文化論」の議論の変遷を、ルース・ベネディクトの「菊と刀」を皮切りに経年的に概括した著作です。
著者の青木保氏は、その変遷を以下の大きく4つのフェーズに区分しています。
・「否定的特殊性の認識」(1945~54)
・「歴史的相対性の認識」(1955~63)
・「肯定的特殊性の認識」前期(1964~76)、後期(1977~83)
・「特殊から普遍へ」(1984~)
この区分は、日本の経済発展の度合い、特に海外進出の状況と関連しています。中でも「肯定的特殊性の認識」の時代は、その関連性が顕著に見られます。
(p82より引用) 1964年から83年にいたる約20年間は「肯定的特殊性の認識」の時代であると区分したが、まさに「経済大国」の「自己確認」の追求が行われるのである。
この「自己確認」は、多くの「日本人論」「日本文化論」に係る著作によりなされました。
(p114より引用) 70年代は、これまでみたいくつかの「日本文化論」の主張が、さながら「流行語」あるいは、「大衆消費財」として日本中に出まわった「日本文化論」の時代である。
「タテ社会」「甘え」「間人主義」などのことばが、さながら巷に氾濫するようにマスコミを賑わした。「豊かな」社会を表徴するかのように、こうしたことばが日本人の、日本文化の、「独自性」と「卓越さ」を示すものとして使われ、外部からの「エコノミック・アニマル」「働き蜂」等とよばれながらも、日本人の心を慰撫した。その効果は、海外に進出する「ビジネスマン」の「心の支え」となって、また国内に働く「暇なし」人間の「自己確認」となって、この経済大国に生きる人々を「鼓舞」した。
そこに見られるのは、「『日本人』『日本文化』の特殊性が日本の驚異的な経済成長の原動力であった」といった論調で、そのトレンドの一つの頂点が、エズラ・ヴォーゲル氏による「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979)だったと言えるのではないでしょうか。
(p123より引用) ヴォーゲルの本には、「日本文化論」の主張点のほとんどが巧みに盛り込まれており、なおかつ彼自身の「日本中間層」サラリーマン社会の社会学的研究以来の「日本観」が最大の好意を込めて、そこでは展開されている。70年代末の時点において、ヴォーゲルの「日本人論」は、日本人の多くがまさに待ち望んでいたものであった。
文化相対主義
本書において、著者は、ルース・ベネディクトの「菊と刀」を非常に高く評価しています。
「菊と刀」は、戦争の終結と戦後の日本占領に役立てるという目的のため大戦中に米戦時情報局からの委嘱により書かれたものです。その執筆にあたっての原資料は、米国で入手可能だった種々の文献やインタビュー等が中心でした。著者本人の現地調査が一度たりとも行なわれなかったという点では、フィールドワークを重視する文化人類学の研究としては極めて異例なものと言われています。
にもかかわらず、当時においても、その著作の完成度については一定の評価がなされていました。
そういった評価が得られたのも、「菊と刀」の基調にある「文化相対主義」によるものと言えるでしょう。
(p34より引用) 「文化相対主義」はボアズをはじめベネディクトやハースコヴィッツといったアメリカの文化人類学者が中心となって提唱した「文化」のとらえ方である。ごく大まかにいえば、いかなる文化も独自の、その文化内で自律する価値を有するとして、一つの文化で成立した価値観で他の文化を一方的にとらえては異文化の理解ができない、とする説で、それまでの西欧文化中心主義の上に立って、その尺度でもって他の文化を、一方的に評価してきた文化理解を批判するところから出発している。
「文化論」において「相対的」な立場を保つことは容易ではありません。戦時期においてはなおさらだったと思います。
本書において、著者は、「日本文化論」の「相対性」という観点から、1955~63年を「歴史的相対性の認識」の時代と位置づけています。
この時期の代表的な論調として紹介されているのが、加藤周一氏の「雑種文化論」、梅棹忠夫氏の「生態史観」です。
(p75より引用) 加藤の「雑種文化論」と梅棹の「生態史観」は大変異なる外観を示しているが、実際には似た主調音を鳴らしている。加藤が「日本文化の雑種性」は大衆の間では「楽しまれている」といって、知識人の「意見」ではなく一般民衆の「生活実感」を肯定的に評価しているのと同じく、梅棹も「よりよい暮らし」を尺度に「平行文化」を説くのである。
この二人の論者はともに「日本文化」あるいは「日本文明」の積極的で肯定的な意味を「生活実感」においており、イデオロギーや思想には求めてはいない。「和洋折衷」でも何でも日本の現在が享受する「文明」生活の「よさ」を評価するのである。
この見方は、1950年代後半の日本経済の拡大期において、「日本の自信回復」を後押しするものでした。
「菊と刀」の系譜
戦後から現在にいたるまで、数多くの「日本人論」「日本文化論」が世に出ていますが、本書を読んでみると、その源流は、ルース・ベネディクトの「菊と刀」に遡るとも言えそうです。
著者の論によると、ベネディクトが「菊と刀」において提起した「日本文化」の基調となる主要な論点は2点でした。
(p48より引用) 「日本をして日本人の国たらしめているもの」についての仮定として、『菊と刀』が日本人に提示し、その後ながく議論の対象となった問題は、二つある。第一に、日本人の社会組織の原理としての「集団主義」である。第二に、日本人の精神態度としての「恥の文化」である。
この論点は、その後、中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」において「タテ社会」の肯定に、作田啓一氏の「恥の文化再考」において「羞恥」の肯定に引き継がれ、さらに発展、展開されたと説いています。
(p94より引用) 中根の「集団主義」の特徴「タテ性」の強調と、作田の「恥の文化」の「二面性」の強調とは、アプローチの仕方が異なるとはいえ、ともにベネディクトの主張点を共有しながら、その展開をはかったという点、ともにその「肯定面」を主張したという点、しかも外観からみられるほどには両者の論点はちがわないという点で、この時期を代表する「日本文化論」に位置づけられる。
また、著者は、「菊と刀」の立論においては「心理人類学」的なテーマも含まれており、1970年代以降の「日本文化論」の論考において、その観点からの継承も見られると指摘しています。
(p98より引用) 日本における「心理学」「精神医学」への関心の高まりとも呼応するように、この面での「日本文化論」も大きな関心をよぶのである。その中の代表的なものに、土居健郎『「甘え」の構造』(1971)と木村敏『人と人との間』(1972)があり、この二書は社会論的アプローチを特徴とする前二書に対して、精神分析と心理分析による「日本文化論」の提出としての特徴をもつ。
こうやって「日本人論」の主要著作の潮流を概観してみると、確かに、ベネディクトの労作「菊と刀」の「日本文化論」に及ぼした影響の大きさが、まざまざと実感されます。