「自分」の壁 (養老 孟司)
(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)
久しぶりの養老孟司氏の著作です。
大ベストセラーだった「バカの壁」から、もう11年も経つんですね。本書でも、歯切れのいい “養老節” は健在です。
ここでは、その中からちょっと気になった指摘を、覚えとして書き留めておきます。
まずは「日本のシステムは生きている」という章から、日本における「思想」の位置づけについて語っているくだりです。
西洋社会においては、「民主主義」とか「進化論」といったプリミティブな思想が、人々の意識や考え方に通底している、それに対して、日本人にとっての「思想」は、現実生活においては “お題目” のようなものに過ぎないというのが養老氏の捉え方です。
日本人は「思想」の扱いに慣れていないのでしょう。いつもは重きを置かれていなくて意識もしていないものが、あるきっかけで最前面に押し出され自らに迫ってきたとき、その扱いに戸惑い、勢いある圧迫に完全迎合してしまうのです。
同じような日本人の特質を採り上げているのが「絆には良し悪しがある」という章です。
先の東日本大震災を契機に “絆” という言葉が人口に膾炙されました。この言葉で改めて認識された「日本的な共同体」ですが、昨今はその人間関係に煩わしさを感じる人が増えていたのが実態ですし、その流れは、震災があったとしても、大きな動きとしては逆流にまでは至っていません。
この点に関し、養老氏は「信用や不信のコスト」という点から興味深い評価をしています。
この指摘は首肯できます。が、これはメリット・デメリットある中での一側面ということでしょう。
白黒をはっきりつけないで物事を進めていくというやり方は、約束(契約)ごとに限らず、日本の “ものづくりの力” の源泉とも言われていた「すり合わせ文化」にも現れています。この評価についても近年はいろいろな議論があるところです。
そしてもうひとつ、「あふれる情報に左右されないために」の章で論じられているのが、「メタメッセージ」の弊害です。
インターネットの普及により情報過多となった今、養老氏が打ち鳴らす警鐘でもあります。
たとえば、マスメディアで喧伝されるイシューは、繰り返し繰り返し見聞きされることにより、受け手は「それ以外に重要なことはない」と思い込んでしまうのです。
今はネット社会です。以前の比ではないような無数のメタメッセージが生れているのでしょう。だとすると、その弊害は計り知れません。
もちろん情報が豊富になると物事をより深く知ることができるようになります。ただ、これも必ずしも諸手を挙げて歓迎すべきことではありません。養老氏はこう続けます。
この指摘はとても面白いですね。多くの人々は、あることが分かるとその周りのことも解明されたのだと誤解をしてしまうというのが養老氏の指摘です。
だからこそ、まず細部を議論する前に、まずはざくっとした「全体像」をイメージすることが重要になるのです。この全体像は、時間軸・空間軸の広がりを意識したものでなくてはならないでしょう。
こういった全体像が頭に入っていれば、様々な個々個別の断片情報がインプットされたとしてもこの全体像の中での位置づけ・意味づけを考えることによって、大きな方向性において判断を誤るリスクは激減します。そして、こういった全体像を多くの人々が共有することができれば・・・。
「ビッグピクチャを描けない」、これが、養老氏が指摘する日本人の大きな弱点なのです。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?