ソクラテスのスタイル
時折、年に1~2回、内容が理解できるわけではないのですが、プラトンの著作を読みたくなります。
今回手に取った「パイドロス」は、「恋(エロース)」をテーマにした思索と「弁論術」に対する批判が基軸になっています。
「エロース」に関する思索については、「魂(プシューケー)」の議論も踏まえつつの展開でした。「魂」の説明においてソクラテスは、以下のようなメタファーを用いて説明していきます。
このイメージは、訳者藤沢令夫氏の注によると、プラトンの魂の「三部分説」に重なりあうと言います。すなわち「知的部分」と呼ばれる精神の機能が馭者に、「激情的部分」が良い方の馬に、「欲望的部分」が悪い馬の方に相当するのです。
本書では、このイメージをもって、「恋する者の心的葛藤」を描写していきます。とはいえ、このあたりの概念や論理展開は私には難解でした。
ただ、形式的な立論において、例のソクラテスのスタイルが当然ながら踏襲されていて、それとしての親近感は感じますね。
いわゆる「無知の知」を前提とした「問答形式」です。
さて、もうひとつの本書のテーマ、「弁論術の批判」については、パイドロスの「リュシアス礼賛」に対する疑義の表明が、批判の皮切りになります。
弁論術
本書での「弁論術」批判の立論は、比較的論旨をたどりやすいものだとの印象です。もちろん、完璧に理解し切れてはいないと思いますが・・・。
まずソクラテスは、「語ろうとすることの『真実』」について問います。パイドロスの答えはこうです。
まさに、「弁論『術』」の本質を突いた台詞です。
これに対しソクラテスは、例の問答を通して、「真実そのものの把握なしには、真実らしく思われるように巧みに語るということさえ、本来不可能であること」(巻末解説)を明らかにしていきます。
とソクラテスは語ります。リュシアスをはじめとする弁論家の説くところは、まだ「術」にすら至っていないというのです。
ソクラテスにとっては、「技術」といえるものも「物事の本質の追究」を経て完成されるものなのです。
本質の追究にあたっては、ロジカルな「分割法」が採られます。
まずは、目的を明確にします。目的が明確になると、働きかけるべき対象が明らかになります。そして、その対象を分割し個々に分析していくという方法です。
分割・分析により規定された各々の類型に対して、それぞれ適した話を対応させることにより、個々の魂の説得を行うのです。
さて、「弁論術」についての論考を進めた後、最後にソクラテスは「書かれた言葉」についての議論を採り上げます。
したがって、言葉はその真意を守らなくてはなりません。パイドロスは、ソクラテスの語る意味をこう理解しました。
ソクラテスが著した書物は、1冊も残っていないと言われています。