ある明治人の記録 ― 会津人柴五郎の遺書 (石光 真人)
(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)
猪瀬直樹新東京都知事(当時)の「職員向け新年の挨拶」の中で紹介されていたので読んでみました。
会津藩出身の元陸軍大将柴五郎氏の幼年期から士官学校入学までの回想です。
その具体的な内容は、柴氏本人の過酷な年少期の生活の記録としても重厚なものですが、明治維新期の会津藩の知られざる受難の歴史的証言としても興味深いものがあります。
幕末、会津藩主松平容保は京都守護職の地位にあり、京都の治安維持に尽力しました。しかしながら、薩長の対立関係から会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍により朝敵とされたのでした。
慶応4年(1868年)、薩摩の軍勢は会津城下に迫り来ます。
常に歴史は「勝者の歴史」であるのが世の習いですが、否定された側の忸怩たる思いは、それこそ当人以外には想像も及ばないものなのでしょう。
会津戦争(戊辰戦争)に敗れた会津藩ですが、明治2年(1869年)に容保の嫡男容大の家名存続が許され、陸奥国斗南に斗南藩を立てその地に移りました。お家復興に喜ぶ旧藩士たちではありましたが、いざ移住してみるとその地は日々の食べ物にも事欠くような厳しい環境、まさに極寒の荒地でした。
この言語を絶する陸奥での悲惨な生活を乗り越え、下男・馬丁にも甘んじながら、柴氏は陸軍幼年学校・陸軍士官学校にと進みました。そこには、幾多の恩人の温かい支援がありました。
その中のひとり、弘前大参事野田豁通に対する感謝のことばです。
その後、陸軍大将にまで栄進した柴氏ですが、まさに野田氏のごとく温厚な人柄だったといいます。
とはいえ、その生涯を通じて、その心の底に沈殿・堆積して消し得なかったのは、歴史の理不尽さに対する忸怩たる思いでした。
著者のふり絞るような悔恨の吐露は比類なきほどの重さです。