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暇と退屈の倫理学 (國分 功一郎)

(注:本稿は、2024年に初投稿したものの再録です。)

 いつも聴いている茂木健一郎さんのpodcast番組に著者の國分功一郎さんがゲスト出演していて、茂木さんと本書についてお話ししていました。

 なかなか面白そうなやり取りだったので、ちょっと気になって手に取ってみました。(数年前に出版された本ですが、文庫化されて、近場の図書館ではいまだに10人以上の待ち行列でした)

 数々の興味深い思索の解説がありましたが、それらの中から、私が関心を惹いて理解できたような感触を得たところをひとつ書き留めておきましょう。

 それは、「人類の定住化と退屈との関係」について。
 人類の “定住化” は約1万年前から食糧生産に先だって中緯度地方にて始まったとのことですが、國分さんは「定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになった」と指摘しています。
 遊動生活では移動のたびに新たな環境に適応すべく常に感覚を活性化させていました。

(p104より引用) だが、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。だから定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面をもとめければならない。

 そして、その人間の有り余る心理能力を吸収する装置や場面として「文明」が生起したと考えるのです。

 さて、國分さんは、以降、マルクス、ルソー、ハイデッガーといった超有名な思想家の論考を取り上げつつ、「暇と退屈」をめぐる多様な思索を紹介していくのですが、正直、私の場合、かなり早い段階から國分さんの解説に頭がついていかなくなりました。
 そして、その後は、目は文字を追うもののページが繰られていくだけで、最後の「結論」の章のこういうくだりにたどり着いたという顛末です・・・。

(p409より引用) 世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

(p409より引用) さて、本書にとっての最初の問いは、どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくかということだった。それに対し、〈人間であること〉を楽しみ、〈動物になること〉を待ち構えるという結論が導きだされた。

 やっぱり駄目ですね。せっかくの國分さんの丁寧な解説をもってしても、私には、何も理解できませんでした。もう一度読み直さなくてはならないようです。

 ただ、私の場合、そもそも思考する訓練が全くできていないので、今のままだと何度読んでも理解には至らないかもしれません。ともかく、まずは「考える」ことができるようにならなくては、幾度となく “返り討ち” に会うだけでしょう。

 しかし、これだけのレベルの哲学書が「25万部突破のロングセラー(2022年度時点)」とのこと、私にとっては驚愕の事実ですね。



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