落語論 (堀井 憲一郎)
(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)
会社近くの図書館の書架で目についたので読んでみました。
私は、まあまあ落語が好きな方だと思います。
基本的には上方落語、四天王と言われた六代目笑福亭松鶴・三代目桂米朝・三代目桂春團治・三代目桂文枝各師匠や二代目桂枝雀師匠がお気に入りですが、最近は東京落語、五代目古今亭志ん生師匠はもとより四代目桂三木助師匠・八代目桂文楽師匠あたりも聞き始めました。
本書は落語通のコラムニスト堀井憲一郎氏による「落語論」です。
「論」といっても堅苦しい内容ではなく、著者の奔放な主張をテンポよく開陳したものです。
たとえば「江戸落語と大阪落語」について。
噺によっては、一方で生まれた噺が他方でも口演されることはあります。上方落語の演目の一つ「はてなの茶碗」は、東京では「茶金」として語られます。が、この噺はやはり「上方噺」です。
京都の旦那と大阪男のやりとりを演じるのは東京の噺家では無理です。かの五代目古今亭志ん生師匠の「夢金」も聞きましたが、残念ながら私の耳にはギクシャクした会話で違和感しか残りませんでした。
本書は、第一章に相当する「本質論」に続いて「技術論」が展開されます。
単に落語を楽しむのであれば、技術論に関する蘊蓄は不要と著者自身も述べていますが、いくつかの指摘は私のような素人でも何となく首肯できるところがあります。
その一つは「声の出し方」。特に「声の高低」が生み出すメロディについての解説です。
もうひとつは「間」。「無音の間合い」のことです。
「間がいいねぇ」というのは、よく聞く噺家への褒め言葉ですね。著者は「間」とは「音のないセリフ」だともいえると指摘しています。
技術としての「間」の見事さではなく、演者としての「気」がすごい。このあたりの指摘も説得力がありますね。
落語を聞く楽しみは、「ストーリー」にはありません。一部の新作落語を除いては、「ストーリーの意外性」のウェイトは通常小さくなります。
特に有名な古典落語の場合はそうです。すでに何度も聞き知っている話を、異なる噺家が演じるのを聞くとか、同じ噺家の話を異なるTPOで聞くといったケースが大半です。
それだけに、落語の魅力はストーリー以外でマンネリ化しないもの、まさに、それは「演者の力(個性)」に収斂されるといえるのでしょう。