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坂の上の雲 (司馬 遼太郎)

日露戦争

 2010年は、NHK大河ドラマの「龍馬伝」が大評判です。以前放映された「竜馬がゆく」を思い出しているのか、今またちょっとした司馬遼太郎氏のブームですね。
 私も以前から、司馬氏の作品はそこそこ読んでいたのですが明治期のものは「花神」ぐらいでした。

 ということで、今回は(今さらながらではありますが、)司馬氏の代表作のひとつでもある「坂の上の雲」を読んでみたというところです。
 私から、小説のストーリーのご紹介をしても意味がないので、通読してみて私の関心を惹いたくだりをいくつかご紹介します。

 まずは、司馬氏の「日露戦争」の意味づけです。

(一 p75より引用) 小さな。
 といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。・・・この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
 その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらかしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。

 これに対して、「日清戦争」の性格については、こう語っています。

(二 p150より引用) 要するに日清戦争は、老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだにおこなわれた大規模な実験というような性格をもっていた。

 司馬氏は、日清・日露戦争あたりまでの日本はそれなりの論理性をもった振る舞いをしていたと考えているようです。
 政府・軍部等戦争指導者の思考様式・精神状況について、司馬氏は、日露戦争期と第二次大戦期とでは全く異なっているとの評価を下しているのです。

(三 p185より引用) 日露戦争当時の政戦略の最高指導者群は、30数年後のその群れとは種族までちがうかとおもわれるほどに、合理主義的計算思想から一歩も踏みはずしてはいない。これは当時の40歳以上の日本人の普遍的教養であった朱子学が多少の役割をはたしていたともいえるかもしれない。朱子学は合理主義の立場に立ち、極度に神秘性を排する思考法をもち、それが江戸中期から明治中期までの日本人知識人の骨髄にまでしみこんでいた。

 とすると、わずか30年ほどの間で、その基本的思考法が急転回した要因とは何だったのかが次の関心事となります。
 合理的根拠のない神秘哲学の浸透もまた、当時の日本人の何からの素地が与したものなのでしょうが・・・。

日露戦争の人々

 本書は日露戦争を舞台としたかなりの長編小説なので、数多くの登場人物が描かれています。
 全編を通しての主役は秋山好古・真之兄弟ですが、前編では、秋山兄弟と同郷、松山出身の歌人正岡子規が主要人物として登場します。後編は、まさに日露戦争の陸海の戦場が舞台となりますから、主役は軍人です。

 それら多くの登場人物の描写の中で、私が関心を持ったところを1・2、ご紹介します。

 まずは、陸軍大将児玉源太郎

(五 p94より引用) 児玉にいわせれば、
(専門家のいうことをきいて戦術の基礎をたてれば、とんでもないことになりがちだ)
ということであった。・・・かれらの思考範囲が、いかに狭いかを、児玉は痛感していた。児玉はかつて参謀本部で、
「諸君はきのうの専門家であったかもしれん。しかしあすの専門家ではない」
とどなったことがある。専門知識というのは、ゆらい保守的なものであった。児玉は、そのことをよく知っていた。

 この「専門家」に対する児玉の評価はまったく首肯できるものです。「諸君はきのうの専門家であったかもしれん。しかしあすの専門家ではない」という台詞は鋭く本質を突いています。

 もうひとり、当時の海軍の日本海海戦の先任参謀として当時の海軍の作戦策定の核を担った秋山真之。彼の思考をよく現している記述です。

(二 p206より引用) 明晰な目的樹立、そしてくるいない実施方法、そこまでのことは頭脳が考える。しかしそれを水火のなかで実施するのは頭脳ではない。性格である。

 最後はやるかやらないか、真之は、一途に考え抜いた人だったようです。

 さて、その他、この作品で印象に残ったくだりを二つ記しておきます。

 ひとつは「革命」の現実の姿について。

(六 p199より引用) 人類に正義の心が存在する以上、革命の衝動はなくならないであろう。しかしながら、その衝動は革命さわぎはおこせても、革命が成功したあとでは通用しない。そのあとは権力を構成してゆくためのマキァベリズム(権謀術数)と見せかけの正義だけが必要であり、ほんものの正義はむしろ害悪になる。

 もうひとつは「新聞」の堕落について。

(七 p218より引用) 日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。・・・新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。

 日露戦争後、ロシアは帝政が崩壊し、日本は帝国主義に向かって疾走していきました。



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