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訂正する力 (東 浩紀)
(注:本稿は、2024年に初投稿したものの再録です。)
いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。
東浩紀さんの著作は「ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる」に続いて2冊目です。
先の本は “ビジネス書” 的な内容だったので、この著作では、本来?の東さんらしい思索的メッセージに触れられるかと期待して読んだものです。
多彩なテーマに関する東さんらしいコメントや示唆がありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「はじめに」に記されている「訂正する力」の定義。
(p4より引用) ものごとをまえに進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが本書が言う「訂正する力」です。
“リセット” とは違います。“老いる” ことも「訂正」のひとつの姿だというのです。
(p6より引用) では、老いるとはなんでしょうか。それは、若いころの過ちを「訂正」し続けるということです。・・・同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。
以降の議論のイントロダクションとしては、分かりやすい説明ですね。
そして、「訂正する力」の発揮は、「じつは・・・だった」という気づきを発見しそれを積み重ねていくという現実的なプロセスをたどります。
(p111より引用) 社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。それが本書の基本的な立場です。
そうやって「訂正」することを認めあう人間関係が、そこに生きる人々の人生を豊かなものにしていくのだと東さんは語るのです。
(p156より引用) 人生は、訂正する力で豊かになります。自分のイメージが他人のなかでたえず訂正され、他人のイメージも自分のなかでたえず訂正されていく、そういう柔軟な環境が生きることをとても楽にしてくれるからです。
「訂正を認め合える」ということは そこに “信頼関係” が築けているということでもあるからです。
そして、東さんは、「訂正を認める」ことにより “極論を共存させる” こともできると指摘しています。
(p236より引用) 縄文と弥生。朝廷と武士。攘夷と開国。明治と戦後。閉じることと開かれること。作為と自然。漢意と大和心。保守とリベラル。ふたつの極論の対立は何回も何回も繰り返される。そして両者を往復するかたちでアイデンティティが形成される。
そこに、日本が持つ “両義的な文化的ダイナミズム” の源があり、その点をもって「日本は、じつは “訂正できる国” だった」と東さんは主張しているのです。
さて、本書を読み通しての感想です。
先に読んだ「ゲンロン戦記」とは全く異なるテイストです。こちらの方が東さんが本来得意とするジャンルでしょうから、前著と比較すると納得性や読みやすさに圧倒的な差がありますね。
私自身、東さんの著作はほとんど読んだことがないので、彼の思想そのものはまだ全く理解しているわけではありませんが、“A or B” という「0(ゼロ)1(イチ)の結論」を突きつけてくる昨今の短絡的議論のトレンドに対し、本書で東さんが提起している「現実的な弁証法的思考スタイル」は “思索のプロセス” としては十分採るに値するものだと思います。