繊細な家族と、ともに暮らすということ。
我が家は、夫とわたし、7歳の息子の3人で暮らしている。
このあいだの月曜日のこと。
ダイニングデーブルで朝食をとっていたら、
わたしの手にしていたフォークが陶器の皿に触れてしまい、キィッと甲高い音がした。
あ、と思った瞬間だった。
夫の手が激しく震え、持っていたカップから紅茶がほとんどこぼれて、着ていた服を濡らした。
夫はもう一度身震いすると目を閉じて、そのまま動かぬ貝になった。
こういう時には、すべてをシャットダウンして回復を待つ時間が必要になることを、わたしは知っている。
ふだん何事もスマートな感じの夫が
一瞬の音ひとつでお茶をかぶるほど滑稽に傷つき、ものも言えなくなってしまうことは
わたしの中では、もう不思議なことではない。
陶器の皿を使うときは、金属のカトラリーは使わない。気をつけているつもりでも、時々こういうことをしてしまう。
パパ、どうしたのかな?
と息子は不思議そうに聞く。
パパはね、この音が苦手なの。
ふうん。よっぽど、嫌いなんだね。
夫が苦手な音が、繊細な息子も同じように苦手とは限らない。
息子は、その音は平気なのだ。
この日、お皿を片付けながら急に、あれっと思った。
夫は、蜂蜜をかけたプレーンヨーグルトにはたいてい手をつけないのだった。いつもそのまま残してある。
気分じゃないのだろう、と気にもせずあとで食べていたけれど、パックのヨーグルトを出した日は、決まって1番にヨーグルトから食べる。
もしかして。もしかして!
これも、ガラスの器とスプーンの組み合わせがこわかった・・・?
そういうことだったの??
木のスプーンとかだったら、食べられると思う。
夫は小さな声で言った。
なんと、まあ、まさか。
ずっと、そんな理由があったなんて。
わたしは、なにも知らずにいたのだ。
我が家のフォークとスプーン、すぐに木にするわ!!
結婚10年を過ぎても、時にはじめて知ることがお宝のように掘り出される。これが結婚生活の醍醐味ってやつでしょうか。
1人の人の中にも色々なキャラがあるわけだけど、
わたしの中で夫といえば、「びっくりしやすい人」。
繊細な人にはあるあるなのではと思うのだけど、うちの夫はかなり驚きやすい。
ささいなことで、ビックリして飛びあがっている。
というふうに思っていたのだけど、家以外でそんな姿はみないから、
原因は夫ではなくわたしのほうにあるのかもしれない。
夫が廊下を歩いているタイミングで、急に真っ暗な寝室から声をかけたり、
洗面所で顔を洗っているとき、顔を上げたら後ろに立っていたりと
そんなつもりはないのに日々脅かしてしまい、
夫は「わああビックリした!!!」と叫んでは胸をぎゅっと押さえている不憫な日々なのだ。
別に広い家でもないのに、夫にいわせれば、わたしは神出鬼没らしい。
「特に夜がこわい」という。
わたしは夜、息子と寝てしまうことが多い。
でもうれしいことや心配なことがあった日には、それを夫にも話すべくゾンビのように復活する。
だけど夜だし、息子が起きるかもしれないので(こちらはこちらで超繊細)あまり物音は立てないようにしている。
となると、帰宅してようやくお風呂から上がってきた夫に、静かに近づいて声をかけることになるわけで。それが、夫を飛び上がらせている。
このゾンビは、息子に関するニュースなど言いたいことを伝えられたら気がすんで、
わずか数分で「じゃ」と片手をあげ、大人しく寝室に消えてゆく。
夫は胸を押さえ、「おお…おやすみぃ…」と言って幻でもみたような顔で見送ってくれる。
毎度毎度全身の毛を逆立てる猫のように驚いているのを見るとおかしくて、声をおさえて笑ってしまうのだけど、でもこれまでわたしが脅かしてきたぶんの累計で彼の寿命が一年ぶんくらいは縮んでいるのじゃないかと思うと心配だ。
特に帰宅後、リラックス状態に入った直後の声かけは、脅かしてしまいやすいと、わたしなりに学んだ。
・いきなり背後から声をかけない。
・まずは視覚や音で、そこに人がいることを認知してもらってから話しかけるようにする。
・暗闇から突然現れるのはやめる。
(反省メモ)
・・・いや、小学生か!という話である。
繊細うんぬんの前に、書き出してみれば、人として当たり前の配慮だった。
で、じゃあ繊細な息子も同じように驚きやすいのかといえば、これもまた少し違うのだ。
先日3人で、寝室で眠るまえのゴロゴロタイムを楽しんでいた時だった。わたしは、ブラックフライデーのサイトを見ながら夫と話していた。
そろそろ、こういう大きな枕を買おうかな。
今の枕、ふたりで頭のせてるからほんとに狭くって。
最近肩が痛いんだよねえ…
何か買うものあったっけねー、という気軽な感じで、脳の稼働率0.1%くらいで話していたら
隣に寝転び、本を読んでいた息子が、急にベッドに突っ伏して動かなくなった。
げげっ、まずい。
なにも気がつかないふりをしてしばらくほっておいたあと、そっとのぞきこむと
静かに目をこすり、涙をぬぐっている。
「いや、そうちゃんとわたしが、ふたりで使える枕が欲しいなってことだよ?」
そう言ったのをきっかけに、涙は次から次へとあふれ、すべすべの頬を伝い落ちていく。
こういう、わたしがなにげなく口にした言葉の温度や小さなひっかかりや、ざらりとした感覚に、息子はとても敏感だ。
前々からずうっと、思っていた。
この子の感性を、心や体の感じ方を、自分と同じに考えてはいけない、と。
「ママ、『せまいがしあわせ』ってことば、知ってる?」
電気を消したあと、いつもより少し遠い場所から息子の声がした。
「うーん。知らない。・・・どういう意味?」
「せまいほうが、幸せがいっぱいっていういみ。
せまいと、あったかいし、髪の毛のいい匂いもかげるし、いいことがたくさんっていういみ。」
今日はおとなしく自分の子ども用枕に頭をのせて、すこし離れた場所からこんなことを言ってくる7歳のいじらしさ。
息子の髪は、いつだっておひさまのいい匂いがする。
それは7歳になった今でも変わらなくて、わたしはふだんからその髪の匂いを嗅がせてもらうのが大好きだから。
「ほんとだね。せまい方が、いいことがたくさんあるね。広いと寒いし、やっぱりせまい方がいいなあ。」
ひな鳥のように丸まっている小さな背中をさすったら、息子は鼻をすすり、わたしの枕の端っこに、いつもより遠慮がちに頭をのせた。
息子は、痛みにとても敏感な子どもだ。
それは、心の痛みだけではない。
たとえば、足の親指にできた小さなささくれ。
こんな痛みだって彼はたぶんとてもクリアに感じ取る。
正直、夫とは何度も顔を見合わせてきた。
ささくれだの、乳歯がぐらつくだの、足をどこかにぶつけただのでMAXの痛がりようなので、オオカミ少年よろしく、本当のピンチのときがわからずに途方にくれてしまう。
そういう世間一般の反応を代弁でもするつもりで、呆れ顔を隠そうともせずに声をかけてきた。
だけど、少し違う気がする。
強くなるとか、我慢するとか、鍛えるだとかじゃないのかもしれない。
痛みというものは、息子にとっては、無視することができない不安と恐怖。
たぶんとてもこわいものなのだ。
少しだけ、分かってきた。いや、分かりたいと思う。
自分ではないこの人から見える世界を、もっと、感じとりたいと思う。
『ものすごくうるさくて ありえないほど近い』
もう10年以上も前に見たこの映画を、
何かを手繰りよせるようにしながら
もう一度見直して、わたしはわんわん泣いた。
主人公の男の子、オスカーには怖いものがたくさんある。
たとえば
電車やバスなどの乗りもの。
街の騒音や雑踏のざわめき。
そして、ブランコ。
オスカーのパパは、いつでもオスカーの味方だった。
ある日パパはオスカーを励まし、自分もブランコを漕ぐ姿を見せて、チャレンジさせようとする。でもオスカーはどうしてもブランコに乗ろうとしない。
しばらくして、あきらめたように、家に帰ろう、とパパはいう。
「ぼくにがっかりしないで!」
その背中に向かって、オスカーは叫ぶのだ。
カメラは、オスカーの視点から世界を見せてくれる。
鉛色の空から垂れ下がるように、不安定に揺れるブランコの鎖。その鎖が軋んで立てる大きな音。
地面の重力を離れて、空中にふわりと放り出される足の先。
わたし達は同じ世界に生き、同じものを見て、同じ音を聞いているようだけれど。
きっとこんなにも、違うのだ。
わたしのほうが息子と過ごす時間は長いけれど、彼の気持ちやコンディションをひと目で読み取ることは、夫のほうが得意。
わたしが気がつけないような小さな心のゆらぎにも、夫は気づいて教えてくれる。
この人が、息子をともに支えるパートナーでよかったと、わたしはいつだって心強く思う。
「毎日、繊細なふたりと暮らしてて、ほんとうに大変だよね」
と、夫が申し訳なさそうに言ったことがある。
わたしの気持ちは、一体、どんなふうな言葉にしたらいいだろう。
ひとつだけ言えるのは、わたしは本当に、この人たちと家族になれてよかった。
だってわたしは、昔のわたしより、今のわたしの方が好きだ。
10代の頃から満員電車に乗って都心の学校に通い、体育会系の厳しい部活に揉まれて強くなることを考えてきた。わたしは体だけじゃなく心にも筋肉をつけて守ろうとしてきた。そしてテレビにかじりつき、お笑い番組でいろんなことを笑ってきた。
番組に差し込まれた笑い声のタイミングに合わせて、ここが笑いどころだとばかりに
皆とどこか違っている人を笑い、
驚いてひっくりかえる人を見て笑い、
なぜだかうまくできない人を笑い、
失敗する人を笑ってきた。
そんな反射みたいなものが、染み込んでしまった。
常にメジャーな側であろうとしてきた。傷つかない強さこそが、価値であるように思っていた。
「あの人は変わってる」という時、世界の中心には自分がいる。
自分とは違う感性や価値観を持つ人を、受け入れずに断ち切ることに、何も感じなかった。
最近、体の奥深くまで染みこんでしまったその毒のような癖が、すっかり抜けてきているのを感じる。
人を表情を細やかに読み取り、誰のことも決して傷つけたがらないやさしいこの人達に、許してもらっているのはわたし。
一緒にいてもらって、感謝しているのはわたし。
ふたりと出会って、内側から変えてもらったのは、わたしの方なのだ。
でも一緒に毎日を暮らしていると、こんなことはやっぱり、面と向かって言えない。
なんだか気恥ずかしくなってしまって、言えない。
だけどこの家族への大きな気持ちは、きっと人生かけて持ち続けるのだろうという予感がしてるので。
いつか言葉にしてちゃんと伝えてみたい。
そんなことを思いながら、ここに、こっそりと書いておく。