「日々の大切な習慣」を考えると昭和時代までタイムスリップしてしまった!!
私の習慣と言えば医者から処方された薬を飲むことくらいだが、考えてみると子供の頃には色々な習慣があった。
そう、昭和の悪ガキ時代である。
文章にしてしまうとバカバカしさもあるが、当時は真剣だったし良き時代でもあった。
その習慣のおかげで今の自分があるのかも?
【卵の殻を飲む】
すっかり父親の「受け売り知識」だと思っていたが、これを機会にググってみるとなんと!!!!
当時、我が家では卵の殻を天日干しにし(恐らく日光消毒)すり鉢とすりこ木で粉々につぶしたものを、オブラートに包み飲むという荒っぽいやり方で摂取していたが、父の受け売り知識はあながち間違いでもなかったようである。
カルシウムは「卵殻」に豊富に含まれており年齢と共に減少、骨粗鬆症にも影響しこれらの不足に効果的であったのだ!!
飲むのを面倒くさがった私に、母は卵焼きにカラを混入させるという荒療治にも打ってでたが、これにはさすがの悪ガキもホトホト勘弁願いたかったものである。
そこまでして飲ませようとした、亡き父が説いた
「強い体にはカルシウムが必要説」
に、改めて気付かされたのであるが!
「卵の殻にはカルシュウムがいっぱいで、背が伸びるんや!!」
チョット趣旨が違っているようにも思うが・・・まっええか
【金曜日の夜8時からはプロレスを見る】
私がプロレスのTV中継を見るようになったきっかけは、祖母のプロレス好きに大きく影響されている。
当時、私は祖母と同居しており、アントニオ猪木の大ファンで新日本プロレス全盛期!
アントニオ猪木・山本小鉄等、スターぞろいでなんとあの俳優、坂口憲二の父親である坂口征二も参戦しており、ゴールデンタイムを独占していたのである。
祖母はレフェリーのことを「審判」と呼んでおり、ヒール役の外国人選手が反則をすると、
「パンツに栓抜き入れてるがな!審判よう見い!!」
「3つ数えたがな!猪木の勝ちや!!審判何やってんねん(怒)」
と明らかに日本人選手を贔屓したバセイを、審判に浴びせていた。
格闘技という言葉はまだ無い時代、パンツに栓抜きを隠す等の反則でバラエティー感満載(猪木さんごめんなさい!!)であったが、当時はこれで充分満足していたのである。
今から思うと、祖母は戦争を経験している年代で、外国人選手を倒す日本人レスラーにナミナミならぬ想い入れがあったに違いなく、プロレスを観戦する習慣は「日本強し」を再確認できるひと時であったのだろう。
【土曜日の8時からは全員集合を見る】
我々の世代は「テレビ世代」と呼ばれた年代であり昭和40年~50年台にかけて、それらにまつわるバラエティー・スポーツ・ドラマなど沢山の有名人や著名人を輩出している。
「8時だよ全員集合」もその一つで、大阪育ちの私からすれば
お笑いは「吉本新喜劇」以外には考えられない!!
と鷹をくくっていたが、全員集合は別格であった!
驚いたことに当番組は地方の公民館・ホールに出張して、あのドタバタを演じていたのである。
実は私、20代の頃コンサートの音響に携わる仕事をしていたのだが、当時の渋谷公会堂(全員集合のホームグラウンド?)の大道具さんから話を聞かされたことがあり、建物がメンバーギリギリに倒れるシーン等、あのスリルあふれる演出は、ほぼぶっつけ本番だったと、当時の苦労話を誇らしげに話されていたのを思い出す。
ドリフの笑いはアイデア・スピード感・スリル・コントにアイドルを登場させるアイデア等、今見ても新鮮味満載で古びた感じはしないが、古き良き時代の新鮮さはチャップリンの映画にも通じるものがあると感じていた。
チャップリンも1シーンに徹底的にこだわり、同じシーンを何日も撮り続けたエピソードは有名であり、ドリフのコントも「いかりやさん」の笑いに対するメンバーへの執着と厳しさは、相当なものだったと語られている。
「いかりやさん」亡き後、メンバーがTV出演し当時の話を振り返ると、話の節々に「いかりやさん」の笑いへの厳しさあまり、憎まれ役を買っていたのがうっすらとにじみ出るのが微笑ましい。
ドリフ愛を語るとまだまだ続きそうだが、現在では「高木ブーさん」と
「加トちゃん」のみとなったが、5人の笑いは色あせることなく昭和の思い出として心に残っている。
全員集合を観ていないと、翌週は悪ガキ達の会話についていけず、必ず
「加トちゃん」・「志村けん」の物まねをするイチビリがいた。
そんな時代の欠かせない習慣であった。
【水曜日と日曜日は剣道の道場に通う】
私の子供時代、昭和45年頃はまさに剣道世代であり、道場と呼ばれた小学校の体育館には入りきれないほどの少年剣士がいた。
練習は週2回で水曜日と日曜日、小学校2年生から20歳頃まで通った道場であったが、子供の頃はこの曜日がイヤでイヤで仕方がなかった。
何より先生が怖いのなんの!!
体罰NGの現代では考えられない程の厳しさで、気合が入っていないと体育館内をうさぎ跳び、防具を付けたまま運動場を走らせられたり、竹刀で頭を叩かれたり、今から考えるとスパルタ教育と言われた昭和の死語を、まさに実践されていたそんな想い出である。
昭和は気合と言う姿の見えない言葉が、大いなる威厳を放っていた時代であった。
私は小学校2年生から剣道を習っていたのだが、最初はトレパン組(ジャージでは無くトレパンなのである)と呼ばれており、3年生頃になると袴・道着を着せてもらえた。
道着の着方も一から習うのだが、50人以上のトレパン組を前に先生も裸になり、「道着のヒモの結び方」から「袴の前後ろ」をご教示頂いた。
その時、子供ながらに強烈な記憶に残っているのが、先生の履いていたのはパンツでは無く「褌(フンドシ)」であった。
子供心には面白くて仕方なかったが、今思えば体を張って剣道を教えて頂いたのである。
週2回の剣道通いをした習慣は、二人の息子に引き継がれたかと思うと彼らは空手を選んだ。
理由は簡単で、「剣道は臭そう」と武道経験が無くキアノリーブスのファンである嫁の一言である。
幸運なことに近くの空手道場に沖縄流派で一流の師範がおられ、長男は4歳から、次男は6歳からお世話になった。
二人とも黒帯を頂き、次男は17歳の現在でも道場に通っている。
息子たちは決して空手が上手い子では無く、むしろ下手・・・
子供の頃の試合では型競技・組み手、共に1回戦負けが続いたが師範は試合の勝ち方では無く、礼儀・相手への敬い・「継続は力なり」の教えを貫かれた。
今思えば私が習った剣道の先生も、時代と表現に違いはあるにせよ
同じことを教えようとしていたのでは無いかと感じている。
【昭和の習慣を書きたかった理由】
習慣とは知らず知らずのうちに身についていることであり、昭和時代の習慣が今の私の基礎になっているように思えてならない。
「裕次郎のように背が高い男になって欲しいと、卵の殻を飲ませた父の思い」・「プロレスを見てやはり日本は強いのだ!と再認識したかった戦争を体験している祖母の言葉」・「全国の笑いを一世を風靡したドリフのコントセンス」「剣道では無く空手を選んだ息子たちのおかげで出会えた師範」
一つ一つが積み重なって今の自分があり、日々の大切な習慣を見つめ直し、昭和時代までタイムスリップしてみると、それらは息子たちにも引き継がれていることに気づいた。
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