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元少年A 『絶歌』【基礎教養部】[20250125]

※本記事は上記の本を読んで感じたことを言語的に突き詰めながら書いた記事であり筆者を擁護する意図は一切ありません。ご理解の上本記事はお読みください。


本書を読んでからここ数日気分が悪い。それは本書の凄惨さも起因しているが理由はそれだけではない。書評でも書いた内容に被るがもう少し体系立ててnoteでは語っていきたい。

本書への不快感の正体

本書は彼の生い立ちから事件時、事件後、少年院時代が綴られた第一部と少年院を出た後の社会生活が綴られる第二部からなる二部構成となっている。この二部構成が一言では表現できない不快感の一因であることは間違いない。

第一部では彼が次第に狂っていき殺人犯となるまでの経緯が鮮明に描写されている。風景描写は抽象的かつ日常生活では普通使われない言葉で描写されるので非常に読みづらい。一方、人の描写や動物の描写は何年も前の体験を書いたとは思えない異常なほどリアルな描写で綴られる。ショッキングな内容であり読んでいて非常に辛かった。第二部では一転して第一部であったような文章から漂ってくる異常性は鳴りを潜める。むしろ日頃私達が感じ、他者と共有しているような情緒に関する描写が多く綴られている。この点が私が本書を読んで1番困惑した部分である。事件の内容や罪の重さを考えると彼に同情する余地など無いだろう。しかし彼もまた我々と同じ「人間」であるという事実をこの一部と二部の対比の中でまざまざと見せつけられた。

書評ではこう書いたが、もう少しここを深掘っていきたい。私の不快感の正体は少年Aを「罪の無い少年少女を殺した快楽殺人犯」という「悪」と置き、自分を「正義」と置いた対比による不快感ではない。少年Aが他人の気持ちが1ミリも理解できない純粋な「悪」としての快楽殺人鬼であれば上記のような分かりやすい「悪」に対する不快感で終わっただろう。しかし本書の中で綴られる少年Aは日頃私達が感じ、他者と共有しているような情緒も有している。特にそれが第二部では多く描写される。そこに私は困惑し、また一種の恐怖のようなものを感じた。つまり私の不快感の正体は「恐怖」だったのだ。絶対に自分とは相容れない「快楽殺人犯」、怒りの対象、理解不能な対象であったはずの存在が自分の理解の範疇にヌルッと入ってくる。これが恐怖と言わずなんと言えよう。

他者とは自己からのアナロジーである

小さい頃、友達と一緒に遊んでいる時に友達が転んだ。足を擦りむき膝からは少しだが血が出ており、友達は泣いている。ほとんどの人はその友達に対して「痛そうだね、大丈夫?」というような言葉を心配しながらかけただろう。なぜこういったことができるのか。それは私たちは自分が転んで痛かったことを思い出して、それに似たような状況を目の当たりにした時に他者も自分と同じように「痛み」を感じていることを想像(類推:アナロジー)する能力を持っているからである。神戸連続児童殺傷事件を犯した少年Aに対して私達が怒りを抱くのもそれは私達が「殺人鬼から自分や家族、大事な人に危害を加えられたくない」という思いがあるからこそ少年Aに対して怒りが湧き、事件の被害者への悼む気持ちが生まれるのだ。つまり他者への理解や感情への出発点はいつも自分であり、それを私は「他者とは自己からのアナロジーである」と考えている。そのアナロジーが成立しない対象に我々は「理解不能」という判断を下す。普通私達は「悪」と感じるものに「理解不能」という判断を下したい。私もそうである。その自己からのアナロジーの対象に本書の中の少年Aはヌルッと入ってきた。これが上記の私の「恐怖」の正体である。

なぜ本書を読んだのだろうか。正直読まなければよかったと思った。しかし本書の存在を知った時に「この本、また事件に対して知っておかなければ」という思いを抱いた。

こうした凄惨な事件に直面した時、我々には何ができるのだろうか。何かできるかもしれないし、何もできないのかもしれない。でもせめて「知りたい」と私は思う。とても小さな力ではあるがその問題意識はこの世界を良い方向に向かわせていくものであると、私は信じている。

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